毎日の生活

花色の誘惑

ナイロビには花が多い。車に乗っていても歩いていてもどこへ行っても目につく。

特にブーゲンビリアが多い。季節に限らず赤、赤紫、青紫、ピンク、白、黄色など花の色の種類が豊富で、公園の近くを歩くだけで非常にカラフルでついウキウキとしてくる。そこに咲いているのが当たり前という雰囲気で静かに自己主張している。市外に出ると家の周囲にキレイに植え込んでいるところもあり、白い壁との調和が楽しい。その派手やかな花の下には細く鋭い棘がついており、隙間なく植えると犬や猫でさえも入って来られない。側に高く延びる樹があるとそれに寄生してどこまでも高く伸びていく。

ケニアの10、11月は小雨季の時期になるが、その少し前9月末頃になるとナイロビ中のジャカランダの樹が一斉に紫の花を咲かせる。1カ月以上は咲き続けるがその紫の花が散ると道一杯に広がってまるで紫の絨毯を敷いたようになる。週末になると市民がよく集まる公園があり、その奥まったところに特別見事な花を咲かせるジャカランダがあり、子供を連れた家族がその前で写真を撮ったり若いカップルが語らっていたりする。

 

僕の家から2kmほど行くと花を売っているガーデンがある。日本とは違ってそれぞれ種類ごとの花壇があって、根の付いたままを売っている。そこでは花だけではなくオーガニックなハーブ類なども売っている。ナイロビの今の季節は日本でいうと冬が明ける頃で、咲いている花の種類も少ないが休日の散歩には持ってこいの雰囲気なので時折遊びに行く。

実を言うと僕自身、花にはそれほど興味を持つ方じゃないが家内が結構好きなので買ってきては自宅の庭に植えたりしている。僕の場合はイチゴ、マンゴ-、アボカドなどどちらかというと

腹の足しになる実用的なものに惹かれる。

つい2~3日前に家内が「ネ~ネ~チョット来て~」とキャーキャーいいながら走ってきたので「何だ又ヘビでも出たのか…」と思ったが「桜の花が咲いたワヨ~…」と満面ピンクにして興奮していた。今年は庭に桜の苗木を植えてから16年目になる。昨年までは咲いたといってもホンのチラホラで「やっぱりナイロビじゃ無理かな…」と半ば諦めていた。ところが今年はオ-ッ!と思わずホホも緩んでくるほど見事に咲いた。日本のように花の下にゴザを敷いてとまではいかないが、ピンクの花びらをグラスに浮かせ風流な気分に浸った瞬間、思わず昔の花の色香を連想してしまい「何を思いだし笑いしてんのよ…!」と睨まれてしまった。

昨日・今日・明日

大分前になるが白黒からカラー映画に変わる頃、ソフィアローレン主演の「昨日・今日・明日」という映画があった。それ以外にも「ひまわり」などを始めソフィアローレンの出ていた映画は沢山あり、それを観たさに毎週のように映画館の前を通り予告編を楽しみにしていた。勿論それ以外の映画もめったやたら観ていたのでストーリーがゴッチャになってどれがどれだか区別がつかなくなってしまったものもある。その当時の他の有名な女優さん達と美しさや知的さでは一歩譲るが何しろあの独特の存在感が堪らなかった。岩の上に長い足で立ち、荒れた荒野を見据えた時のあの逞しさ、かと思うと舞踏会でみせる雅やかな踊り、強く構えた中に潜むおふくろ的暖かさと、女としての優しさがズーンと響いてきてもしかしたら一目惚れしていたのかも知れない。 

ナイロビには全く名前がその通りのYesterday,Today and Tomorrowという花がある。元々は

ブラジルから入ってきた花でシュラブ系ナス科に属する。花の色が昨日は青紫、今日は薄紫、明日は白と変化する。夜になるとその花は非常に魅惑的な香りを周囲に漂よわせ、近くを通ると

つい引き寄せられてどうにも立ち去りがたくなる。

ケニアの人々の間ではTomorrowとかNo problemいう言葉がよく飛び出す。日本人の概念としてTomorrowというと当然のように「明日」と思うのが普通だがこちらでは「その内に」とか「いずれは」とか「もし可能ならば」いう意味合いが強く、将来に向かってということを意味する。

確かに間違いではないがしかし例えば「今日は時間が取れないから明日13:00に中華料理店で会おう」と言うと殆ど間髪を入れずに「OK!No problem!」と返ってくる。翌日になりこちらはいかにも日本人らしく約束の15分前にその中華料理店に行き、一応テーブルの空きを確認し窓際の良い席を確保しておく。それから30分待っても1時間待っても相手は現われない。結局来ないので店の人に折角良い席を予約してくれたのだが、と謝ってバツの悪い思いをしてしまう。

相手に電話をすると…

「ユーノー、さっき政府の大事な人からお昼を誘われたのでそっちに行けなくなった」

と平気で言う…

「何だヨ、ジャ~それならそうと電話をくれればいいじゃないか」

「ユーシー、忙しくてヒマがなかったんだ」

「なんだよ、このやろ~こっちより大事なら今後二度と昼メシなんか奢ってやらないからな…」

「ノーノーノーエンドウ、そんなことじゃない、お前も大事だよ…」

もうこれ以上言っても無駄なのでイキナリ電話を切ってしまう。

 

ところが別の日に別の用事で会う約束をし、当日は車の渋滞などで思ったより時間が掛かり遅れてしまうような時、“どうせ相手も遅れてくるだろう”と多寡を括って行くと相手が既に来て待っていることがある。そんな時…

「エンドウ、お前日本人なのに約束の時間を守れないのか」と来る…

「イヤ~ワルイワルイ、交通渋滞がヒドクて…」などと言ういい訳が何となく自分もアフリカ人になってしまったようできまりがワルくなる。

もう一つよく使う言葉でON THE WAY COMINGというのがある。矢張り約束の時間通り現われない場合、相手に電話をするとこの言葉が出て来る。実際には約束を忘れてしまい驚いてこれから出る時にこのように言う。車で30分以上掛かるのに「アイム オン ザ ウエイ カミング ウエイト フォー2ミニッツ」と言う。これなんかは全く嘘を言うつもりなんかはなく、コチラが心配しないように、必ず行くから心配しないで待っていてくれ、という“心づかい”から来るものと思うしそう信じたい。

しかし普段から自分がよければ他人はどうでも構わない、といいながら自分の家に人を呼ぶのが好きでその時には特別のご馳走ではなく普段食べているものを出してくれる、それが家庭の温かさが出ていて嬉しくなる。いかにも貴方の為にこれだけの料理を用意しました、というのを出されるとどうも他人行儀な感じで気持ちが冷めてしまうものだ。

 

ナイロビ市内ではつい最近までいたるところにパーキングメーターがあった。車をパーキングする際、たまたま手持ちにコインがなく、近くに屯している子供にチョットお金を貸してくれと言うとサット来てメーターにコインを入れてくれて、ニコッと笑って行ってしまう。料金は1時間で約10円だったがそんな時には思わず100円のお小遣いをあげたくなってしまう。

そういった子供達が次の日は包帯で腕を吊るしたり松葉杖をついていかにも悲しそうな表情で近寄って来る。そこへポリスが通りかかると松葉杖なんか放り出し物凄い勢いで走って逃げて行ってしまう。

このパーキングメーターは故障が多く大分前に撤去され、代わって出てきたのがナイロビ市役所から派遣された黄色いユニフォームを来たオジサン・オバサン。小切手帳のような駐車券を手に駐車しようとする車が来るとサーッと近寄って行き料金を徴収する。去年までは日本円で約100円だったのが今年に入り2倍の200円になってしまった。しかしその領収書兼駐車券をダッシュボードにおいて外から見えるようにしておけば、その日1日中駐車区域ならどこへ駐めても構わない。他に車を駐められるところというと市内の空き地を有料駐車場にした青空駐車場がある。駐車料金というよりショバ代を払わされてる気分になってしまうが駐めている間に何があろうと責任は取らない。その車の間を洗車ボーイがバケツと雑巾を持ってさかんに動き回っている。普通乗用者タイプで100円程で、お金を貯めてどうするんだと聞くと“自分の親が誰なのかどこにいるのか知らない。お金を貯めて学校に行って勉強するんだ。大きくなったら車の修理工場を持ちたい”という。過去は恨まず明日に向かって生きる子供達を見るとこちらの気持ちも暖かくなってくる。このような子供達がもっともっと増えてくればケニアの将来も捨てたもんじゃないのだが…。

タラ・レバ

今年ももう後半の7月に入ってしまった。陰暦では文月という。“陰暦”とか“文月”とか又々そういった言葉の言い方・読み方を調べたくなる虫がムズムズしてきたが、面倒臭くっても中途半端がキライな性格なので一度辞書を開き始めると仕事も手につかなくなるのでその内時間がタップリある時に調べようと後回しにする。ただ文月と聞くとどういう訳か紫式部や清少納言の名前が思い出され、優雅で艶っぽい雰囲気に恋焦がれる気持ちになる。そこで久しぶりに独り言を書くことにした。

色々と仕事の関係や個人的な故障があって4月以来中休みをしてしまったが友人・知人や思いがけない人から「最近独り言を書いてないようだけど…?」と心配してくれるメッセージが届き、

ビックリするやら嬉しいやら恥かしいやら複雑な気持ちになり「エッ、怠けてらんないナ~」と

自分に鞭打つことにした(中途半端もいいとこだ)。

 

ゴルフをしない方には大変恐縮だが、プレーする人なら誰でも知っているタラ・レバという言葉がある。「あの時これをこうしていタラ…」「これをこうやっていレバ…」という、打ったボールがチョロしたり藪に飛びこんだりした時の自分に対する叱咤、憐憫、後悔の込もった反省の呟きだ。ひどい時には自己嫌悪に陥り「全く俺はダメな奴だ!」と自虐的になったりする。

好きになってしまった女性に思いきって愛を告白し、相手に迷惑そうな目付きをされて「困ります!」といわれ、これ以上しつっこくしたら迷惑を掛けてしまうナ、益々嫌われてしまうナ、ヤッパリ俺はダメなんだ…というのとはチョット違って己の未熟さが情けなく、怒りのやり場を求めてクラブやキャディーにヤツ当りしたりする。

ボールを打つ前の頭の中は腕をこうして、手首をこうやり、肘はこうやって、肩をこうすれば、トップはこうなって、膝はこうなり、目はこのままで、フォロースルーがこうなる…などなど色々なことを順序建てて考え、その通りにやろうという気持はあるが、せいぜい2秒間のスイングの中で全ての動作を順序立ててできる訳はなく、イザクラブを振り上げた途端そんなことは全部どっかへ行ってしまい人より遠くへ飛ばしたい欲ばかりで手でこねてしまい、ボールの行方が心配でボールを打つより先に目が上がりヘッドアップの常習犯となってしまう。

「なんで俺はこうなんだ、どうしてこういう簡単なことができないんだ!」と自分を卑下することの繰り返しである。そんな時はもうゴルフなんかしたくない!辞めた!」と何度思ったことか…

それがワンラウンド中に一回でもイイ当りをするとその快感が堪らなく、それがもし2回、3回とあるともう辞めようと思ったことなんかケロッと忘れてしまう。

 

アフリカではゴルフでなくても普段の生活の中で何故?どうして?という疑問の呟きが日に数回は出て来る。「何故こんなことができないんだ…?」「どうしてこんなことをするんだ…?」という不可解な思いである。しかし考えてみれば日本は紀元前3世紀頃から米を作り始め、人々は集落を作って共同生活をするようになり、特に弥生時代の後期に卑弥呼が出て来てからは他人に迷惑を掛けてはいけない風潮が浸透して行った。そして墳丘墓が作られ又外敵から見を守る為に2重、3重の柵を建てたり10m以上の高さの物見やぐらを作ったりした。これなどはしっかりした計測をしなければ作れなかったものである。このような人との触れ合いや物事を“キチン”とするとか“けじめ”とかいう生業(なりわい)が日本人の血の中に流れてきていると思う。

現代になって幼稚園の時から絵を描くことや字の読み書きを習い、家の周りを見ても道はキレイに舗装され、その道に沿って家々もキチンと建てられ、洗濯機、テレビ、冷蔵庫、車は当たり前になっている。

紀元前3000年頃にエジプトでピラミッドが建てられたがケニアではつい最近まで生活の営みを雨、風、太陽など自然の恵みに頼り、時折狩りをし、何の心配もなく暮していたのである。

それがペルシャ、ポルトガルなどの後に英国を始めとするヨーロッパ諸国が侵入し彼らの言う文明の利器を押しつけ始めた。それが結果的に良かったのかどうかそれぞれの判断にお任せするが1963年に英国から独立後も生活の主流が農産業ということは変わらず、都会以外では牛1頭と数羽の鶏を飼い、わずかなトウモロコシを畑に植えてという貧農が多いことに変りはない。家畜の世話、畑の耕作、子供のお守など働く姿は女性が多く、道端で寝転んでいるのが男だった。

僕がナイロビに来たのは1976年だがナイロビ市内でも裸足で歩く人が多く、ナイロビ市内のメインストリートに信号機がやっと1台あるだけだった。それも常に黄色の点滅だけだった。

このように生きて、育ってきた歴史が全く違うのだから自分が暮してきた環境での常識で話しをしても通じる訳はなくよく日本からのビジネスマンがつい「なんでこいつらはこんなにバカなんだ!」と呟くのを聞いたことがある。しかしそうではなく大事なのは自分の固い脳味噌を柔らかくし相手の歴史から半強制された状況を把握し相手が理解できる話し方をすることである。それをしなければ研究不足・勉強不足・努力不足・認識不足ということになりアフリカでは生き残れない。相手を責める前にまず自分の怠惰を恥ずべきである。自分が生まれ育った国とは全く違う環境の中で生活しなければならないならその国のことを知らなければならないのは当然のことである。

 

話しは冒頭に戻って、私は毎日朝07:00にはオフィスに出てセキュリティーを解除し、メイン

コンピューターのスイッチを入れ、コーヒーを入れ、メールのチェックをする。

7,8月のナイロビは1年で最も寒い季節にはいっており指先に息を吹きかけながらキーボードに向かうことになる。今日は7月7日、夜空一杯の宇宙の七夕を楽しもう・・・

酒とタバコ

僕の生まれた町は宮城県北部いわゆる故郷(フルサト)と呼ばれる岩出山という名前の町。奥羽山脈の裾野が張り出してなだらかな平野につながり、稲田が遠くまで広がって夏は緑が濃く、秋が近い敬老の日ともなると小学校、中学校、高校など町中の子供達がイナゴ取りに狩り出され小学校の広い校庭に大きい鉄鍋が10以上も並び、町内のオバサン達が一つの釜に5~6人程掛かりワイワイ言いながら子供達が取ってきたイナゴを砂糖と醤油で煮たりしていた。他のオバサン達はイスやテーブルを並べたり皿ダ~箸ダ~柄杓ダ~ナンダ~カンダ~と賑やかでお祭りのようだった。煮こんだイナゴは町内のお年寄りに食べてもらったり、子供達にもおやつ代わりに分けてもらったりしていた。僕が育ったこの町は世間でよく言う田舎町ということになるのだろうけど子供の時分には自分は田舎者だなんて思いもしなかったし自分の住む世界が全てだと思っていた。岩出山という名前から想像するといかにも岩や石がゴロゴロしているような印象を受けるが町全体は低い丘陵地帯に囲まれた静かな田園風景の広がるのどかな町だった。東京から新幹線で約2時間、古川で奥羽本線に乗り替える。古川から岩出山までの車窓から見る風景は遠くに奥羽山脈の連なりが見えその山の麓まで水田が広がっていて“イヤ~こんなキレイなところでオレは生まれたんだナ~!”と何となく嬉しくなって“田舎と呼べるところがあって良かったナ~!”と思う。何が良いのか具体的には表現できないが子供の頃には殆ど毎日山の中に入って遊んでいた。どうやって何をして遊んでいたのか今じゃ思い出せないが森や林の中を歩き回るだけで楽しかった。ブナ、楢、楓、杉、椿などそれ以外にも名前は忘れたが沢山の種類の木があったことは覚えている。

特に夏から秋にかけてのシーズンには野生の果物が沢山採れるしそれらの甘い香りのする中を歩いていると自分は1人じゃないんだという安心感があっていつもだれかが一緒にいてくれるような不思議な感覚があった。

町を挟むようにその両側には鳴瀬川と江合川いう川が流れ、それぞれ澄き通った浅瀬の中でフナや鮎が泳いでいるのが道を歩いていてもよく見えた。それらの川のズ-ッと上流には鳴子ダム

があって中学生の頃雪が積もる中でダムの修理のアルバイトをしたことがある。1日働いて100円位じゃなかったかと思う。約1ヶ月働いて腕時計を買った覚えがある。

この鳴子は温泉の湯治場としても有名で泣きコケシが特産でもある。鳴子峡という渓谷があってその崖沿いに散歩用の歩道があり夏などは涼を取りに来る人が多く、秋は秋で山あいから渓谷全体が紅や黄色の紅葉に覆われて素晴らしい景観を見せる。

 

僕の生家の庭にもリンゴや梅の木が植えてあって代々自家製の梅酒を造っていた。家の台所の片隅に大人がすっぽり入る位の大きな素焼きのカメが数個程並べてあり、その中に焼酎と青梅の実、角砂糖が口近くまで入れられていて1ヶ月もすると堪らなく香ばしい匂いがして来、よくコタツに入って試験勉強をしていてもモジモジしてきてついつい台所に入りカメの蓋を開け柄杓で梅酒をすくってゴクゴクやったものである。それでいい気持ちになってテレビでその頃流行っていたローレン、ローレンのローハイド!なんていう西部劇を観ながら興奮しながらも眠りこんでしまったものだった…それが下地となったのかどうか今でも酒は大好きである。大酒飲みではないがイイ雰囲気の中で酒を飲むのが好きだ。僕にとってのイイ雰囲気というのはイイ場所・イイ時間のことで例えば自分の好きな風景は、1つは静かに海を見られるところ(日本にいる時にはよく大晦日の夜は1人で房総半島に行って夜明かしで飲んでいた)、2つめは山奥にある渓流の側(これもよく日本でテントを担いで釣りに行っていた)、サバンナでのテントキャンプ(特にマサイマラのキチュワテンボというロッジの庭から見る風景)、そして障子越しに雪のふり積もるのを感じながらコタツの中で飲む熱燗……そんな時イイ相手とイイ酒があれば極楽!

 

しかし酒なら何でもいいかというとそんなこともなく、その時々によってビールを飲みたい時やウイスキーを飲みたい時など雰囲気によって違う。イタリア料理店でスパゲッティ-を食べる時は矢張りワインが欲しくなる。それである時フイに高校生の頃に飲んだ梅酒の味が口の中に湧いてきて飲みたくて堪らなくなったことがあった。その時、まだ熟れる前のスモモを買ってきて角砂糖とウオッカを買い、みようみまねで梅酒を作ってみた。子供の頃の記憶では少なくても1ヶ月はそのままおいておかなければならないということを聞いたことがあるので、その1ヶ月間というものは家に帰ってもソワソワしてしょうがなかった…

…でとうとう1ヶ月目が来て蓋を開けて飲んでみた・・・!

…全然梅酒の味がしなかった……

…でその後酢を混ぜたりライムを入れてみたりちょっとジンを入れてみたりしたがどうもあの昔恋しい味が出てこなかった…それでとうとう軟弱者の私は“大和や”という日本食販売の店に行ってそこで日本からの梅酒(ゥメッシュ)を買って飲んだ。飲んだがしかし…ゥ~ン、ヤッパリあのお袋の作った味は例えようのないお袋の思いでだナ~…!

 

そして初日の出と共に飲む酒は美味しいというよりも多少なりとも厳かな気分になるもので、元旦に昇る朝日を見て手を合わせると何となく仏様の世界に入ったような気分になった。しかし手を合わせるということは“神様仏様自分はこれだけの信心があるのでこれからの1年間何とか無事に過ごさせて下さい”とか“いいことがあるように”とか“できれば幸運が欲しいんですが…”などと自分が得することだけ、都合の良いことだけをお願いしていたものである。

ある日ナイロビドウドウハウスの仲間とナイロビから車で約1時間の所にあるンゴングヒルに

登って初日の出を拝もうじゃないかということになった。その頃(20年以上前)はまだまだ安全でドロボウノドの字もなかった頃だ。ンゴングというのはマサイ語で遠くを見るという意味らしい。マサイの戦士達はこの頂上から何を見ていたのだろうか…。標高は約2100m、頂上に立つと左がナイロビのあるキクユランド、右がマサイの住むマサイランドと景色がハッキリと分かれている。キクユランドは緑が多く肥沃な土地で農耕民族が多く遠くにナイロビのビル群が霞んでいる。

マサイランドは乾燥したステップ地帯で人が住んでいるような気配も感じられない。道は悪いがここの頂上まで4駆車でなら上って行けないことはないが今回は初日の出を拝みに来たんだからイージーにも車で上ってハイ、パンパン、じゃいかにも太陽の神様に対しイージー過ぎて失礼なんじゃないかと歩いて上ることにした。しかし麓からだと時間が掛かり過ぎるので途中まで車で行き、後の半分を歩いて上ることになった。ナイロビは標高約1700m、ンゴングヒルの裾野は1800m、そこから車で約200m上り、歩くのは100mということになる。100mといってもそれは標高差であってダラダラ坂有り、急坂ありで道の長さは700~800mにはなる。

男女6人がランクルに乗りナイロビの家を出たのが03:30、ンゴングヒルの中腹に着いたのが04:30、そこから車を置いて歩き始めたが05:30には頂上に着くだろうし明るくなり始める空を見ながら厳かな気分に浸るのが楽しみだった。山を上るとき右足と左足を1秒間ずつ交互に休ませながらユックリと進んで行くやり方があるがこの程度の上りなら走っても上れるだろうと多寡を括っていた。何しろ田舎で育って足腰は丈夫だし(子供の頃は…)富士山に登った時も殆ど息切れなんてしなかった(19才の時だった…)。しかしこの時の自分は36才だったがそれでもまだ体力には自信があった。歩き始めてすぐ上り坂になりチョット行って少々なだらかになりそこから又上りになっている。…でこの2度目の上りに差しかかった時急に膝に力が入らなくなり足を前に出すのが鬱陶しくなってきた。“ナ~ニこんなものはスグ治るしまだまだ大丈夫だ!”と自分に言い聞かせることにした。

「アレ、エンドウさんどうしたの…?」

「ウン、イヤ何でもない、急いでもしょうがないからちょっと一服してから行くよ…」

「じゃ~我々は先に行くよ…」

「ア~イイよすぐ追いつくから先に行ってていいよ・・・」

立ち止まってタバコを一服・二服吸い、吸いながらちょっと上ってタバコの火を消して上り始めた。回りは真っ暗闇だが先を行く皆の懐中電灯の光がチラチラ動いている。自分も持って

いるので足元を照らしながら少しずつ歩いて行く。先を行く連中が段々遠くなって行く。

“なんであいつらあんな早く歩けるんだ、俺と大して歳も違わないのに…”

足に力が入らないのもそうだがノドが苦しくなり息をするのも苦しくなってきた。何やら心臓も苦しくなってきた。かと言って奴らに待ってくれとも恥かしくて言えないし…

又足を止めて休む。

「オ~イィ…エンドウサ~ンン、大丈夫~・・・」大分上から聞こえてくる

「オ~ォ、大丈夫だ!今行ってるから…」

それから15分くらいするともう完全に彼らの声が聞こえなくなった。

“何だ、あいつらはオレが1人で歩いてるってゆうのに冷たい奴ラダ!”

と一人よがりのことを呟く…それからも休み休み上って行ったがもう疲れてきてこのまま帰りたくなってきた。それから約30分もしたろうか上の方からキャ~キャ~言う声が聞こえてきた。

“オッもう追いついたか、奴ラも疲れたんだナ、ザマ~ミロこのヤロウ…”何がザマ~ミロなのかそれでも息苦しい中でホットした。しかし立ち止まってよく上を見ると彼らは疲れたどころか動きが止まっていてもう頂上に着いているような感じだった!

「エンドウさん、早く来て…もう空が明るくなり始めてるヨ~…」

“ヤカマシイ!ホットケこのやろう!”ますます息苦しい中で呟く…

それでもやっと皆のいる頂上に着いた時にはもうハーハーゼーゼー膝はガクガク、息をするにも酸素が足りない感じで肺の奥からニコチンの焼ける臭いとヤニが焦げる臭いがし、生臭い唾がダラダラ出てきて思わず座り込んで手を突いてゲーゲー吐いてしまった。ゲーゲー吐いても固形物はなく苦い胃液が出るだけでノドが狭くなった感じで吸う息も少なく頭も痛くなるわ胃袋は痙攣するわでヒドイ目にあった。

皆から心配そうに顔を覗かれたり背中を擦られたり“ウルサイ、 イイからお前らアッチ行け、”と言いたいが声の代わりにゼーゼーハーハーばかりで本当に恥かしかった!!!

それからしばらくして落ち着いてきたが若い連中に情けを掛けられたのが悔しくてこのくらいのことで息が苦しくなるのは体力ではなくタバコのせいなんじゃないかと太陽が地平線から出てくると同時にポケットからタバコとライターを出し頂上から投げ捨てた。

「アフリカの太陽の神様、これから私は一切タバコは吸いません、止めます!」と誓った。

それ以来本当に一度も吸っていない。それで体力が元に戻ったのかどうかそれ以来山に登っていないので判らない。

雨季と梅雨

ケニアは間もなく4,5月の雨期になる。日本では6月になると「梅雨に入る」という言い方をするが雨期と梅雨の違いは何なんだろうと又アホな疑問が出てきた。小学校か中学校で習ったかも知れないがもう忘れてしまっているし今日は日曜日なのでゆっくりと辞書を開いてみようと思った。全く自分でも何をヒマなことを…と思う。マッ日曜日だからイイか…買い物も終えたことだし…。毎日曜日の朝09:00になると妻と二人、ホーカーズという自宅から車で約10分のオープンマーケットに行くことになっている。普段は妻も忙しい仕事をしていて買い物に行く時間もないのでこのマーケットで1週間分の野菜や果物を買う。トマトはピカピカに光り、大根などは水気を含んでパンパンに張っている。野菜や果物など大きめのサイサルカゴ2ツに目一杯買い込んで日本円で2000円もしない!荷物持ちの僕の指は千切れそうになるが家内は涼しい顔で「アッ、あれもこれも…!」とくる。もういい加減にして欲しい。

新鮮で値段も安いので市内の野菜店のオヤジなどもここに仕入れに来る。農場から着いたばかりのトラックの荷台から野菜を下ろす風景は中々活気があって見ていても気持ちがイイ。又50k入りの玉ねぎやジャガイモの袋を間にして「先週より10%も高いじゃないか!」「昨日から全て値上りしたんだオレのせいじゃない!」「この前と同じ金額しか払わない!」「イヤなら買わなくてイイ!」などと交渉というより言い争いに近いやり取りをし、プリプリしながら麻袋をピックアップの荷台に積みこむインド人もいる。

 

さて、昼前の一時期、コーヒーを飲みながら辞書を開いてみることにした。

「三省堂 現代国語辞典」:雨期⇒1年のうち、特に雨が多く降る季節

           :梅雨⇒6月~7月にかけて降り続く雨。その季節

「岩波書店 広辞苑」  :雨期⇒1年の中で雨の多い季節。

           :梅雨⇒6月頃降り続く長雨。又その雨期。

「旺文社 和英辞典」  :雨期も梅雨も⇒the rainy seasonとある。

「研究社 英和辞典」  :the rainy season⇒雨期、(日本の)梅雨期とある。

雨期というのは特に南国地方で雨の降る季節を差し、梅雨というのは雨の降る特定の時期を差すということが判った。しからば雨期(雨季)というのは雨の降る季節を差すという事は判ったが日本では雨期と言わず何故梅雨というのか…?梅と雨の関係は…?

恐らく梅の収穫時期に関係があるんじゃないかと想像は出来るがイイ加減なことは書けないので今度は「梅」のことを調べてみることにした。

原産は中国長江流域で日本には8世紀半ばに持ち込まれたという。日本はその頃は奈良時代。中国は唐の時代でペルシャ、インド、朝鮮などから多くの人が集まって高い文化を持ち、日本からも阿倍仲麻呂などの遣唐使が送られた。そして吉備真備や鑑真が日本に戻って来た時に各種書物、日時計、楽器、武器などと共に沢山の植物類も持ちかえったものらしい。梅の木は種を植えてから実の収穫まで16年以上を要し、3月頃に花が咲き6月頃に収穫するということが判った。

その後に来る平安時代までは「花」というと梅の花のことを言いその後は「花」というと「桜」の花のことを言うようになったとある。すると昔から日本の雨は6月頃に降っていてそれが現代まで続いているということになる。何かこう奈良・平安時代に降っていた雨と同じ雨に濡れるのか…と思うともっともっと濡れていたい気持ちになってきた…(錯覚もイイトコだ)。

矢張り6月の雨は梅の実が実る時期に降るので梅雨というようになったようだ。

しかし昔の人は何と風流なんだろうと感激してしまう。梅雨だけではなく桜会、入道雲、紅葉、木枯らしなど他にももっとあるがその言葉だけで季節を感じさせる、そういった言葉を作った

古人の智嚢の広さと豊富さ、それとその奥にある遊び心…。言葉や労わりよりも感情と欲が先走ってしまっている近頃の歪んだ風潮に流される現代人(自分もそうだけど)に古人の清らかさを感じて欲しいなと思う。

 

ナイロビの雨季は夜ザーっと降って日中は晴れる場合が多い。その晴れ間を縫ってある日曜日、

友人から誘われてナイロビ市外のロイヤルというゴルフコースでプレーすることにした。

元々ここのコースは土が粘土質でフェアウエイに芝が少なく、雨が降るとグチャグチャになり、乾期になるとガチゴチになって地面がひび割れてしまう。マ、町に近いのでチョイの間練習する位なら何とか我慢する。手入れが良くないせいと言えばそうだがしかし来る度にいつもどこかで修理をしている。この日もそうだった。16ホール目のティーグランドに立つと100m程先のフェアウエーの真ん中で2人程何やら地面を掘っている。野球なら120m飛ばすとホームランだがゴルフの場合は軽く200mを越す。その飛ばす快感もゴルフをする魅力だが…。とにかく危ないのでキャディーを前に行かせてどいてもらう。ナイロビのゴルフ場にはよくサルがいるが打ったボールがたまたまドジなサルに当って引っくり返ってしまうケースもよくあるのでもし人間に当ると“事故”だったにしろ後が面倒なことになる。

ボールを打って歩いて行くとさっきの2人が又出てきて地面を掘り始めた。近ずいてみると穴の中に上半身を突っ込んで手で土をかい出している。

「何をやってんだ…?穴掘りならスコップでやればいいじゃないか、それに工事中の看板も出していないようだが…」

「クイーンを探しているんだ!」

「エッ、何て言った…?クイーン…?クイーンって何のことだ…?」

「クイーンだよ、へッへッへ!」黄色い歯をむき出して笑った…

「だからクイーンって何のクイーンだ?」

「クンビクンビのクイーンだよ!」

「エッ、クンビクンビ…?!」

クンビクンビというのは体長が1.5~2cm位の羽蟻のことで雨が降る時期になると何万何千という数が地面から飛び出して空中を飛び回る。それに合わせて鳥なども忙しく飛び回る。アフリカ人の中にはこの羽アリをそのまま食べる人もいるが大概はフライパンで炒めて食べる。僕も試してみたがちょっと塩を振って食べると干しエビと似たような味だった。以前アンボセリ国立公園のキャンプ場にいる時にサバンナモンキーが争って空中に飛びあがり飛んでいる羽アリを手で捕まえて食べていた。そしてその中の1匹が羽アリの飛び出してくる地面をジット見つめていたかと思うと、その穴に自分の口を持って行き楽々と食べていた。時々口から羽を指で抜き取ったりしていてサルの中にも賢い奴がいるもんだと感心したものだった。

さてこのゴルフ場の黄色い歯の2人だが、穴の中にいる女王蟻を探しているとのことだった。我々が行きかけると丁度見つけたらしく体長が10cm位の丸々と太ったイモムシのようなのを手に持って見せてくれた。

これをフライパンで転がしながら炒ると熱で身体の外側の棘棘が取れ、さらに塩を振りかけながら20分程炒めると中身も柔らかく固まりホクホクと油が乗って甘くて美味しいということだった。その内チャンスがあったら試してみたいとは思っているがまだその幸運には恵まれていない。

労働許可証

どこの国の人であってもどんな職業の人であっても自分の国以外の国に住む場合又は仕事をする場合又は余生を過ごす人もいるだろうけれども、原則として労働許可又は滞在許可を申請し取得なければならない。10年一昔と言うが今から二昔以上前のケニアには1000人以上の日本人が住んでいた。近頃は約半分になってしまっている。理由は色々あるだろうが商社、ゼネコン、製造業など一時期はそれぞれ5~6名の駐在員がいて華やかだったが今はワンマンオフィスが多くなってしまっている。日本国内の不景気もあるだろうけれどケニアの需要と供給のアンバランスさとそれを上回る政治・経済界の複雑さ、諸外国からの物と習慣の激入流にまともな日本の常識がついていけなかったことにも一つの原因があると思うのだが…。最近では得に中国からの人・物の流入が激しく、指を咥えて傍観している間に2万人以上に増えてしまっているとのこと…。よくもそんな簡単に滞在許可が下りるもんだと何かの裏があるんだろうが不思議さを通り越して中国の官民一体の政策に感心すると共にある面で羨ましさも感じてもいる。

中国国内では人口の増加が問題になっていてドンドン世界に送り出そうとしているそうな…。

イヤもう大分前からそのつもりで策を考えてきていると思う。何しろ中国というのは歴史を得意とする国で何かの計画を立てるにも日本人は10年20年と先をみているが中国は100年200年いやもしかしたら1000年先を読んで手を打っているのかもしれない。

何しろ彼らの考えでは沖縄どころか日本全体は元々中国の属国で東南アジア全域も元々中国の領土と考えていて(イヤ、信じている)近い将来全てを中国の管理下におこう(イヤ、取り戻す)と考えている(イヤ、するつもりでもう既に計画の序章に入っている)から話にならないというか日本人が信じている話の基礎となる筋道というものが全てすれ違いになるのは当然のこととなる。

 

さて、ケニアに住む日本人の殆どは首都ナイロビに集中しており地方の都市で個人の裁量で裁縫や染物などを教えている人もいるが、それよりも電気も水道もない過疎地に現地の人と一緒に住み子供達に算数・数学など教えたり灌漑・農業・工業関係で日夜努力し頑張っている協力隊の人々には本当にご苦労様と言いたい。僕なんかにはとても真似はできない。  

ケニア在住邦人の中には日本人としての誇りを持ちながらケニア国籍を取得した人も数人いるしケニア人と結婚し居住権を得ている人もおり又私のように労働許可を取得して住んでいる人もいる。ケニア人と結婚し配偶者として居住する人も労働許可を申請する人も特別な場合を除き共に2年毎に更新しなければならない。この更新の手続きというのが又面倒で申請書類からパスポート、写真その他諸々の書類を一番初めに提出したと同じものを揃え全く前回と同じ手順を踏んで申請しなければならない。

我々のような旅行会社やホテル、レストランなどのサービス業はイミグレーションに行く前に観光省に行きイミグレーションへの推薦状をもらわなければならない。イミグレーションの煩雑さを少しでも緩和する意味もあるとのことだがまずここでも2年前と同じことを書いた書類を持参し又現在保有している車の台数や保険、社員の数や外国人スタッフの数なども届けなければならない。実際ここが第一関門でまず初めに大した理由もないのに延長はダメだ!と来る。

「ジャ~僕は日本へ帰るけどローカルの社員やその家族・親戚を数えたら200人以上の人が明日から食うウガリを買えなくなるがそれでもいいのか?」と脅すと

「誰かが後を継いでやるから大丈夫だ」と言う。

「冗談じゃないヨ、オレをケニアから追い出すんだから会社は全部クローズするに決まってるじゃないか!自慢じゃないがオレの会社は日本から年間3,000人以上の観光客を連れてきているし(勿論ハッタリだが)その会社を潰してあんたと同じケニアの人々から職を取り上げることになるんだぜ…!オレはそのことを新聞にも書いてもらうしラジオでも言ってもらう、勿論あんたの名前もださせてもらう!」

「ノーノーノー!そうは言っていない、代表者を今いるケニアの社員にさせればイイ…」

「あんたはそう言うが俺の会社は日本とのやり取りがメインだし、日本語の読み書きが出来なきゃメールでの通信も出来ないんだ…!」

「日本語の出来るスタッフがいるじゃないか、そいつにやらせればイイ…」

片言の日本語ができるからと言って日本人特有の相手の感情を慮る心情を理解できる訳はないがそれを説明するのも面倒だし又アホらしいので省略する。

「ヨシ!判った!それじゃ一緒に俺の会社に行ってスタッフ全員にオレを追い出して新しい代表者を誰にするか決を取ってもらおうじゃないか!確かに日本語を話すケニア人はいるが読んだり書いたりがどれだけできるか見せてやろう…!」

「イヤ、私はアシスタントパ-マネントセクレタリーの代理の仕事をしているんであって調査とかは自分の仕事じゃない」

「ジャ~調べもしないでオレを追い出すのか!」

「エンドウ、そうじゃないドウドウには日本人の数が多過ぎるし長く滞在している日本人もいる、例えば4年の間にケニア人に仕事のやりかたを教えれば出来るはずだ」

ここでも又日本語には漢字、平仮名、片仮名の3種類があってそれの読み書きを覚えるのに当の日本人でさえ20年勉強したからと言って満足にできる人は少ないんだと言いたいが言っても無駄なので余慶なエネルギーは使わないようにする。

「OK、判った、それじゃ今日はこれで帰るが今度一緒に食事でもしながら話しをしよう…ところであんたは日本食を食べたことはあるか?」

「イヤ~、チャイニーズレストランに行ったことはあるがジャパンはまだないナ~」

「ヨシ、それじゃ今度あんたと奥さんに日本食をご馳走しよう…」

「オーザッツナイス、ユーコールミーエニタイム!」

…でこうして一つの関門は突破するが次がイミグレーションだ…

移民局には1人1人のファイルが厳重(?)に保管されてあり、前に提出した書類がそのままあるので何度も更新している人など申請の手続きはもっと簡略化してもいいと思うのだが中々そうはいかない。その上それなりの書類を用意しそれで更新の申請が全てスムーズに行くかというと飛んでもないことで観光省同様もうこれ以上の滞在は認められない、と申請書類を突っ返される。その理由は色々あるが再びここでも代表的なものは“もう今までアンタがやってきたことはケニア人にも出来るからこれ以上の滞在は不要だ”というもの。そこでその都度我々がケニアに滞在し今までケニアの為、ケニア国民の為に何をしどれだけのことをしてきたか、又今後もケニアの為にコレコレのことをし又ケニア国民の為にコレコレするつもりであることを縷々延べ、その他にももっともらしい理由を文書に明記し再度提出する。

その翌日ワザとらしく電話をして

「昨日提出した書類に説明不足の部分があったので直接会ってお詫びと説明をしたい」というと

「それじゃ~明日10:00にオフィスまで来い」

「10:00は早いので11:00頃は如何か?」

「12:00には約束があるからその前に必ず来い」

「もし遅れると申し訳ないので12:30に昼食はどうか?」

「OKそれならいいだろう」

…とここまでくればもう大丈夫…半分は申請が通ったのと同じことだ…

このような申請は通常1ヶ月前から始めるがまともに申請すると6ヶ月以上パスポートを取り上げたまま返してくれないケースもあり、私のような仕事をやっていると突然ケニア以外の国へ飛んで行かなければならないこともあるのでそんな悠長に待つ訳には行かずあの手この手を考えてやっていかなければならない。郷に入れば郷に従えという諺通りにできればいいがこういったことにそんなに太くもない神経を使い、時間を無駄にし、使わなくてもいいお金を使い、上がらなくてもいい血が頭に上がってくるのを無理やり押えつけていかなければならない。

それを友人に言うと「そんなにイヤならケニアに住まなければいいじゃないか…」と言われる…

ところがナイロビは住んでしまうと離れられなくなってしまう不思議な街で例えば日本へ行く途中、経由地のドバイで関空行きフライトの搭乗手続きの列に並んだ時、ふいにブーゲンビリアの紫や塀一杯に咲いているゴールデンシャワーの黄色を思い出し“あ~もうナイロビに戻りたい”とせつなく思うことがある。これなんかまるで恋心である…

ナイロビで生活する上において魅力のある点を挙げるとまず第1番に気候の涼しさ、ケニヤの1年は日本でいう春夏秋冬ではなく乾季と雨季の二つに大別(寒季、暖季、大雨季、小雨季に小別される)されるが年間を通じ例え雨季であってもジメジメした感じはなくサラッとした空気が流れている。2番に空の青さと太陽の明るさ、3番にジャカランダやブーゲンビリアなど色とりどりの花が街を彩り全体的な雰囲気が明るく感じられる。4番は動物天国でもあるが鳥のパラダイスでもあること。小型の鳥で注射針のように嘴が細く長い太陽鳥は青い羽を光らせながら花の蜜を吸っているし、鳥好きな人は信じられないと思うけれどあの銀顔サイチョウがカップルで庭の樹の枝に止まってお互いあのデカイ嘴でカツンカツンやっている。本当、鳥というのは夫婦仲が良い、どうしたら仲がよくなれるのか教えて欲しいくらいだ…。5番目には贅沢を言わなければ食べるものにも困らない、服装も普段着で構わない、郊外で車を運転している時に思わず気持ち良い位にアクセルを踏んでストレスを発散させることもできる、周りに気を使う必要がない、殆どのケニヤ人は明るくて屈託がないなどの気楽さがある。嘘吐きや泥棒もたまにはいるがケニア人はすぐにばれるウソを言いその後はケラケラ笑って済ましてしまうので憎めないところがある…その上ケニアには山、海、湖、河、サバンナ、森林、砂漠があってどんなスポーツも出来ないことはないし国立公園・保護区など観光で動物を見られる所が40ヶ所もある。公園以外の場所でも普通に人々が暮している町や村でキリンやシマウマ、インパラ、ガゼルなど自然の動物がまるで放し飼いしているかのようにみられる。もう何番目になったかは判らなくなったがとにかく暮らしていく分には他の国にはない快適さがある。

ナイロビ空港から市内に向かう途中、道路の左側にナイロビ国立公園があるがキリンがゆっくりと首を前後にリズムをとりながら歩いているのが見える。その上観光コースに入っていない秘境が随所にあって冒険というか探検というか○秘好きの私なんかはいても立っても入られない気分になってしまう。そんな時には役所などでのあのイヤな思いが消えていってしまう。

ポストオフィス

先日“ふれあい祭り”のことを紹介したけれど実は本当のことを言うと今年の“ふれあい祭“

では今まで誰もやったことのない『たこ焼き』の店を出すつもりだった。その為に妻が5月に日本へ行った際、業務用のたこ焼き用銅版を買い求め船便で送ってもらった。普通なら1~2ヶ月、遅くとも3ヶ月後には“届くハズ”だったのが9月半ばになっても着いたという連絡がない。本番は9月27日なので大分焦った。きっといつものレイジーさでどっかに起き忘れられているんじゃないかと郵便局へ行った。

荷物の受取り専用の郵便局は市内で最も交通マヒの起こりやすい、元エチオピア大統領の名前のついたハイレセラッシアベニュー沿いにある。ここの駐車場は狭くてせいぜい20台位が駐車

出来るだけのスペースしかない。ナイロビ全体の荷物受取をまかなう(勿論荷物の発送や手紙類の受け渡しもしている)にはいかにも不都合なことこの上ない。だからここに来る時にはドライバーに運転させてこなければならない。土地はイヤッという程広いのだから何故市外に引っ越して広い駐車場を用意し市民の為に考えてあげないのか、交通マヒも心配しないで来られるようにしてあげないのか…などといつもここに来る度に思う。

何故?どうして?という疑問符はアフリカではゴルフでいうタラ、レバと同じような意味を持つがこれは説明すると長くなるので別の機会に…

さて郵便局の荷物受取り専用フロア-に行くと一辺20m位のくの字になったカウンターがある。

国際便や国内便、普通小包みや書留便など担当別に分かれた受け付けらしいところに行くと

7~8人がバラバラに座っていてそこの国際便担当者らしい人のところへ行く。

隣に座っている同僚とは1mと離れていないのに ゲラゲラ大口を開け何がおかしいのか不必要な位大きな声で喋っている。こういった場所では来る人(お客)の迷惑にならないように小声で話すか、先ずはプライベートの話を止めてお客様の方に向き直って笑顔で接するものだ、と僕らなんかは教えられてきたが、ここの人達は我々が来ているのを知っていながら無視した感じでまだまだ喚いて(そうとしか思えない)いる。カウンターを挟んで立ったままどれだけ長く無視されるか自虐的な気持ちになって待ってみた。20秒ほど待っても全くこちらを向かないので流石に頭に来てそれでもこちらは礼儀正しく「エクスキューズミー!」と言う。1回だけじゃ振り向かないので今度は少し大きい声で「エクスキューズミー!」と言った。大口を開けたままチラッと目だけこっちを向いて又横を向いてしまった。“なんだこのヤロウ!”とカウンターをドン!と叩こうとした瞬間こげ茶色に染まった歯をむき出したままモッサリとこっちを向いた。

「ハロ~チャイニーズ、ホワットデュ-ユーゥオント?」

そんな言い方はないだろう!と思いながら在ケニア32年のこのオレだ!こんなことでイライラしていちゃ~物事は進んでいかないのは判り過ぎる程判っている。

日本から5月に送った荷物を引き取りに来いという連絡をもらっていないがもしかしたら今日着いているかもしれないから調べて欲しいという。ここで大事なのは荷物が着いたという連絡がないが一体どうなってるんだ、などといかにもお前サンが連絡を忘れているんじゃないか、とか何故まだなんだ、とか相手を責めるような言い方をしてはいけないことである。日本なら直ぐにパッと調べてくれるがここではそうはいかない。自分を律する訓練を受けていないのでちょっとでも気分を害する言い方をされると直ぐにプッとふくれて席を立ってどっかへ行ってしまう。

そこであくまでも下出に出てさっきと同じことを再度言う

「貴方も忙しいだろうけど5月に日本から送った大事な荷物のことで確認して欲しいことがある」というと突然左を向いてカウンターの端に座っていたオバサンに

「オイ、マギー このチャイニーズの荷物ダ!…、オイ、チャイニーズ マギーと話せ!」

途端私はこのゲラゲラ野郎を完全に無視し何も言わずにそこを離れてマギーオバサンのところへ行った。このマギーオバサンにも5月に送った荷物のことを説明しもうここのポストオフィスに来ているハズだから調べて欲しい旨言うと、イキナリ何も言わずに中に入れ、と言う…

事前の細かい説明などしない、したがらない、出来ない、のが普通だから言われるままカウンターの一番右端にある小さなハネ戸を押して中に入った。するとマギーオバサンはクルッと後ろを向いて歩き始めた。後をついて行けば何とかなるだろう、と私も黙ってついて行った。

木で作った4段位の棚にダンボール箱を目一杯押し込め天井までいかにも危なっかしく積み上げた中をおそるおそる通っていくと、いかにも荷物に埋もれたという形容の狭くて薄暗い部屋があった。その中に又別のオバサンとオジサンが座っていてオバサンの方が上司らしくすぐ横の木のイスを指差して座れと言って

「ホワットキャンナイドーフォーユー?」と言う。

3度目の説明を始めた。

しかし今度のオバサンはキチンとしていて私の説明を聞き終わってから6月から今までの荷物の送り状の束を1枚1枚捲りながらチェックしてくれた。ジッ!と側で見ていて“こんなことはコンピューター処理すれば簡単に済むのに”と思いはしたが丹念に手作業を続けてくれているオバサンに何も言えず伝票をめくるオバサンの手元を見続けていた。

20分位も経った頃にやっとオバサンが顔を上げて

「ソーリーまだ着いていないようだ!」と言う

「ジャ~悪いけど今日着いた荷物の伝票をチェックしてくれないか」とお願いする。

オバサンは何も言わずに部屋を出ていったがすぐに戻ってきて

「今日の分もチェックしたけどまだ来ていない」と言う。

「それじゃ~この沢山積んであるカートンの中に混じっているかも知れないから見ていいか?」

と聞くと

「これらは全て引き取り手がなくて3ヶ月だけ保管してあるものだけだし貴方の名前の荷物が届いた記憶はない、私は全部覚えている!」といわれた。あまりにも自信タップリに言われるし、親切にチェックしてくれた優しさに反論も出来ず、それじゃもし僕の名前のカートンが来たら

すぐに教えて欲しい、お礼はするから・・と言って携帯番号の入った名刺を渡し、僕の為に嫌味も言わず時間を割いてくれたことに感謝しているしるしにしっかりと握手をして狭いオフィスを出てきた。

もうコリャ~着くハズはないナ~…銅版だからもしかしたらどっか途中で抜き取られてしまっているかもしれないし…もし届いたとしても間に合う訳ないナ~…別の出し物を考えよう…と誰にも向けることのできない腹の中の悔しくて熱い固まりを抑えながら拳を握り奥歯を噛み締めながらポストオフィスを後にした。

しかしあのダンボールの山に囲まれた自信タップリのオバサンの親切心は有り難かったナ~…と不思議にゲラゲラヤロウのことは薄れてしまい、心の中が温かくなっていた…

 

そして9月26日、明日の“ふれあい祭り”の準備をしなくてはと腕まくりをしている時に

ポストオフィスから荷物が届いたという黄色い紙が届いた!!!!

まるで小説の中ような嬉しい黄色の紙だった。家に帰って“もう半分は諦めた方がイイよ”と慰めてくれた妻に黄色い紙を見せたら口をあんぐり開けて「エ~!ヱ~!一体どうなってんの~!!!?」だった…

来年の“ふれあい祭り“は皆さんに『たこやき』を食べてもらいます!!!