昔の話

がんばれ日本!

4月16日(土)ナイロビ市郊外にあるショッピングモールVILLAGE MARKETの大ホールでケニア日本人会主催による東日本大震災被災者への義援金を募るチャリティーバザールが開かれた。ケニア在住日本人だけではなく世界各国の多くの人々に駆けつけ参加して頂き予想以上の成果に皆様の心を感じることができた。日本人会の幹事の方々が中心となって頑張って下さったがその中でも婦人部の強い結束力が際立っていた。今回の“がんばれ日本”チャリティーバザール実行委員長は日本語よりも英語が母国語に近くフランス語も自由に操るMs.仕事師と呼ばれる女性であり又今年度の婦人部のリーダーはそこにいるだけで周囲が明るくなっていくというM商事ナイロビ駐在事務所所長夫人、会う人全てを魅了してしまう暖かく強い人柄が頼もしかった。

3月11日の地震、津波、火災の災害で多くの方々が命を落とされ又それ以上の行方不明者がいる上に身震いのする原発事故、避難された方々も酷寒の中で食料不足、燃料不足、情報不足とい状況の中で死に物狂いで生きている…。遠く離れて住んでいる我々には何の手助けもできないもどかしさがあった。その中で婦人部会長の発案でこのようなチャリティーバザールを開くことができ参加者の一人として又日本人の一人として感謝の気持ちで一杯になった。

実は僕の実家は宮城県大崎市岩出山町にあり、山形との県境の近くなので津波の直接の被害は受けなかった。しかし姪が気仙沼に住んでおりあの時には目の前50mまで津波が押し寄せて来たという。毎日子供を自転車に乗せ歌を歌いながら家々の間を通って海岸まで遊びに行っていたのが3月11日を境に見慣れた家々が全て津波に浚われ何もない空間になってしまった。すれ違うたびに挨拶していた近所の人々はどこへ行ってしまったのかもう会うことはできないのだろうか…。

姪の住居に直接の被害はなかったがそれ以来電気、水道、ガス、はなし。当然ながら食料もなし。暗く

凍える中で子供と寄り添いご主人からの連絡があることを祈って非常食で食いつないでいたという。

数日後ご主人に会うことができ又つい最近になって電気、水道、ガスが復旧しやっと普通らしい暮らしが出来るようになった。しかしドアーを開ける度に1ヶ月前とは全く違う現実とは思えない風景に身体に震えが走るという。そして尚続く強い余震と揺れに恐くて心も身体も怯える毎日だという。

しかしその姪に対し歯を食いしばって生きろと他人事のようなことしか言えない自分が情けない。

せめて今回のこの義援金が少しでも被害に遭われた方々のお役に立てればと祈るばかりである。

ケニヤッタ初代大統領

ナイロビから北へ車で約15分、ゴルフ場が併設されたウインザーというホテルがある。

そこから更に北へ15分走るとKIAMBU(キアンブ)という町に着く。ケニアの初代大統領MZEE JOMO KENYATTAが生まれた町だ。生まれた時の名はKamau Wa Ngengi。以来数回名前を変えている。Kamau Wa Ngengi⇒John Peter⇒Johnstone Kanau⇒Jomo Kamauそして後にJomo Kenyattaと呼ばれるようになる。彼の一生を追うつもりはないが子供の時から頭脳明晰、大人になってから何度も渡英しそこでマハトマ ガンジーにも会い心理的にも強い影響を受けたとのことである。

ウインザーとキアンブの間にパラダイスロストというピクニックサイトがある。このサイトは今では個人の所有地になっているが1963年の独立戦争の時にマウマウ団の戦士が隠れた洞窟がある。その洞窟の入口付近は古い巨木郡に守られ何やら太古の時代の趣きがある。

今でも一人で近寄るにはある種の勇気が要る。この独立戦争の時に戦った自由の戦士マウマウ団(MAUMAU)の意味はスワヒリ語でMZUNGU AENDE ULAYA、MWANANCHI APATE UHURUの頭文字をとったもの。

MZUNGU(ムズング)・・・・・外国人(一般にヨーロッパ人など白人を指す)

AENDE (アエンデ)・・・・・行かせる、追い出す

ULAYA  (ウラヤ) ・・・・・ヨーロッパ

MWANANCHI(ムワナンチ)・・国民、人々、同胞

APATE  (アパテ) ・・・・・獲得する、得る、

UHURU  (ウフル) ・・・・・自由、解放、独立

直訳すると『外国人(イギリス人)は出て行け、皆で自由を勝ち取ろう』という意味になる。リーダーはジョモ ケニヤッタで1963年6月1日ケニアがイギリスの統治から解放され自治国家となった初代の首相となり、1964年12月12日ケニアが自治国家から共和国となると共に初代大統領となった。

 

1952年2月5日エリザベス王女が25才の時ケニア山麓のツリートップスというロッジに宿泊し、同夜お父上のキングジョージ6世が崩御され女王となられたがその同じケニア山の麓で孫に当たるウイリアム王子がケイト ミドルトンさんと婚約した。ウイリアム王子の母親であった故ダイアナ妃の遺品であるサファイヤアのリングを婚約指輪として送ったという。結婚は来年になるとのことだが王室というところは我々一般市民からは全く想像外の世界だと思うので(僕自身入ったことがないので想像外ということすら想像するしかない)余程の覚悟がなければ好きだ惚れただけでは決心がつかないことではないかと思う。

ケニアは昔は英国の植民地だったが今では中国に植民地化されるのではないかと懸念されるほどで僕なんかもどこへ行ってもニーハオ、ニーハオと言われる。日本や韓国は押されっぱなしで隅に追いやられている感じさえする。このウイリアム王子の婚約を機にケニアも自然や文化の素晴らしさを世の人々にもっともっと知ってもらうチャンスではないだろうか…。

酒とタバコ

僕の生まれた町は宮城県北部いわゆる故郷(フルサト)と呼ばれる岩出山という名前の町。奥羽山脈の裾野が張り出してなだらかな平野につながり、稲田が遠くまで広がって夏は緑が濃く、秋が近い敬老の日ともなると小学校、中学校、高校など町中の子供達がイナゴ取りに狩り出され小学校の広い校庭に大きい鉄鍋が10以上も並び、町内のオバサン達が一つの釜に5~6人程掛かりワイワイ言いながら子供達が取ってきたイナゴを砂糖と醤油で煮たりしていた。他のオバサン達はイスやテーブルを並べたり皿ダ~箸ダ~柄杓ダ~ナンダ~カンダ~と賑やかでお祭りのようだった。煮こんだイナゴは町内のお年寄りに食べてもらったり、子供達にもおやつ代わりに分けてもらったりしていた。僕が育ったこの町は世間でよく言う田舎町ということになるのだろうけど子供の時分には自分は田舎者だなんて思いもしなかったし自分の住む世界が全てだと思っていた。岩出山という名前から想像するといかにも岩や石がゴロゴロしているような印象を受けるが町全体は低い丘陵地帯に囲まれた静かな田園風景の広がるのどかな町だった。東京から新幹線で約2時間、古川で奥羽本線に乗り替える。古川から岩出山までの車窓から見る風景は遠くに奥羽山脈の連なりが見えその山の麓まで水田が広がっていて“イヤ~こんなキレイなところでオレは生まれたんだナ~!”と何となく嬉しくなって“田舎と呼べるところがあって良かったナ~!”と思う。何が良いのか具体的には表現できないが子供の頃には殆ど毎日山の中に入って遊んでいた。どうやって何をして遊んでいたのか今じゃ思い出せないが森や林の中を歩き回るだけで楽しかった。ブナ、楢、楓、杉、椿などそれ以外にも名前は忘れたが沢山の種類の木があったことは覚えている。

特に夏から秋にかけてのシーズンには野生の果物が沢山採れるしそれらの甘い香りのする中を歩いていると自分は1人じゃないんだという安心感があっていつもだれかが一緒にいてくれるような不思議な感覚があった。

町を挟むようにその両側には鳴瀬川と江合川いう川が流れ、それぞれ澄き通った浅瀬の中でフナや鮎が泳いでいるのが道を歩いていてもよく見えた。それらの川のズ-ッと上流には鳴子ダム

があって中学生の頃雪が積もる中でダムの修理のアルバイトをしたことがある。1日働いて100円位じゃなかったかと思う。約1ヶ月働いて腕時計を買った覚えがある。

この鳴子は温泉の湯治場としても有名で泣きコケシが特産でもある。鳴子峡という渓谷があってその崖沿いに散歩用の歩道があり夏などは涼を取りに来る人が多く、秋は秋で山あいから渓谷全体が紅や黄色の紅葉に覆われて素晴らしい景観を見せる。

 

僕の生家の庭にもリンゴや梅の木が植えてあって代々自家製の梅酒を造っていた。家の台所の片隅に大人がすっぽり入る位の大きな素焼きのカメが数個程並べてあり、その中に焼酎と青梅の実、角砂糖が口近くまで入れられていて1ヶ月もすると堪らなく香ばしい匂いがして来、よくコタツに入って試験勉強をしていてもモジモジしてきてついつい台所に入りカメの蓋を開け柄杓で梅酒をすくってゴクゴクやったものである。それでいい気持ちになってテレビでその頃流行っていたローレン、ローレンのローハイド!なんていう西部劇を観ながら興奮しながらも眠りこんでしまったものだった…それが下地となったのかどうか今でも酒は大好きである。大酒飲みではないがイイ雰囲気の中で酒を飲むのが好きだ。僕にとってのイイ雰囲気というのはイイ場所・イイ時間のことで例えば自分の好きな風景は、1つは静かに海を見られるところ(日本にいる時にはよく大晦日の夜は1人で房総半島に行って夜明かしで飲んでいた)、2つめは山奥にある渓流の側(これもよく日本でテントを担いで釣りに行っていた)、サバンナでのテントキャンプ(特にマサイマラのキチュワテンボというロッジの庭から見る風景)、そして障子越しに雪のふり積もるのを感じながらコタツの中で飲む熱燗……そんな時イイ相手とイイ酒があれば極楽!

 

しかし酒なら何でもいいかというとそんなこともなく、その時々によってビールを飲みたい時やウイスキーを飲みたい時など雰囲気によって違う。イタリア料理店でスパゲッティ-を食べる時は矢張りワインが欲しくなる。それである時フイに高校生の頃に飲んだ梅酒の味が口の中に湧いてきて飲みたくて堪らなくなったことがあった。その時、まだ熟れる前のスモモを買ってきて角砂糖とウオッカを買い、みようみまねで梅酒を作ってみた。子供の頃の記憶では少なくても1ヶ月はそのままおいておかなければならないということを聞いたことがあるので、その1ヶ月間というものは家に帰ってもソワソワしてしょうがなかった…

…でとうとう1ヶ月目が来て蓋を開けて飲んでみた・・・!

…全然梅酒の味がしなかった……

…でその後酢を混ぜたりライムを入れてみたりちょっとジンを入れてみたりしたがどうもあの昔恋しい味が出てこなかった…それでとうとう軟弱者の私は“大和や”という日本食販売の店に行ってそこで日本からの梅酒(ゥメッシュ)を買って飲んだ。飲んだがしかし…ゥ~ン、ヤッパリあのお袋の作った味は例えようのないお袋の思いでだナ~…!

 

そして初日の出と共に飲む酒は美味しいというよりも多少なりとも厳かな気分になるもので、元旦に昇る朝日を見て手を合わせると何となく仏様の世界に入ったような気分になった。しかし手を合わせるということは“神様仏様自分はこれだけの信心があるのでこれからの1年間何とか無事に過ごさせて下さい”とか“いいことがあるように”とか“できれば幸運が欲しいんですが…”などと自分が得することだけ、都合の良いことだけをお願いしていたものである。

ある日ナイロビドウドウハウスの仲間とナイロビから車で約1時間の所にあるンゴングヒルに

登って初日の出を拝もうじゃないかということになった。その頃(20年以上前)はまだまだ安全でドロボウノドの字もなかった頃だ。ンゴングというのはマサイ語で遠くを見るという意味らしい。マサイの戦士達はこの頂上から何を見ていたのだろうか…。標高は約2100m、頂上に立つと左がナイロビのあるキクユランド、右がマサイの住むマサイランドと景色がハッキリと分かれている。キクユランドは緑が多く肥沃な土地で農耕民族が多く遠くにナイロビのビル群が霞んでいる。

マサイランドは乾燥したステップ地帯で人が住んでいるような気配も感じられない。道は悪いがここの頂上まで4駆車でなら上って行けないことはないが今回は初日の出を拝みに来たんだからイージーにも車で上ってハイ、パンパン、じゃいかにも太陽の神様に対しイージー過ぎて失礼なんじゃないかと歩いて上ることにした。しかし麓からだと時間が掛かり過ぎるので途中まで車で行き、後の半分を歩いて上ることになった。ナイロビは標高約1700m、ンゴングヒルの裾野は1800m、そこから車で約200m上り、歩くのは100mということになる。100mといってもそれは標高差であってダラダラ坂有り、急坂ありで道の長さは700~800mにはなる。

男女6人がランクルに乗りナイロビの家を出たのが03:30、ンゴングヒルの中腹に着いたのが04:30、そこから車を置いて歩き始めたが05:30には頂上に着くだろうし明るくなり始める空を見ながら厳かな気分に浸るのが楽しみだった。山を上るとき右足と左足を1秒間ずつ交互に休ませながらユックリと進んで行くやり方があるがこの程度の上りなら走っても上れるだろうと多寡を括っていた。何しろ田舎で育って足腰は丈夫だし(子供の頃は…)富士山に登った時も殆ど息切れなんてしなかった(19才の時だった…)。しかしこの時の自分は36才だったがそれでもまだ体力には自信があった。歩き始めてすぐ上り坂になりチョット行って少々なだらかになりそこから又上りになっている。…でこの2度目の上りに差しかかった時急に膝に力が入らなくなり足を前に出すのが鬱陶しくなってきた。“ナ~ニこんなものはスグ治るしまだまだ大丈夫だ!”と自分に言い聞かせることにした。

「アレ、エンドウさんどうしたの…?」

「ウン、イヤ何でもない、急いでもしょうがないからちょっと一服してから行くよ…」

「じゃ~我々は先に行くよ…」

「ア~イイよすぐ追いつくから先に行ってていいよ・・・」

立ち止まってタバコを一服・二服吸い、吸いながらちょっと上ってタバコの火を消して上り始めた。回りは真っ暗闇だが先を行く皆の懐中電灯の光がチラチラ動いている。自分も持って

いるので足元を照らしながら少しずつ歩いて行く。先を行く連中が段々遠くなって行く。

“なんであいつらあんな早く歩けるんだ、俺と大して歳も違わないのに…”

足に力が入らないのもそうだがノドが苦しくなり息をするのも苦しくなってきた。何やら心臓も苦しくなってきた。かと言って奴らに待ってくれとも恥かしくて言えないし…

又足を止めて休む。

「オ~イィ…エンドウサ~ンン、大丈夫~・・・」大分上から聞こえてくる

「オ~ォ、大丈夫だ!今行ってるから…」

それから15分くらいするともう完全に彼らの声が聞こえなくなった。

“何だ、あいつらはオレが1人で歩いてるってゆうのに冷たい奴ラダ!”

と一人よがりのことを呟く…それからも休み休み上って行ったがもう疲れてきてこのまま帰りたくなってきた。それから約30分もしたろうか上の方からキャ~キャ~言う声が聞こえてきた。

“オッもう追いついたか、奴ラも疲れたんだナ、ザマ~ミロこのヤロウ…”何がザマ~ミロなのかそれでも息苦しい中でホットした。しかし立ち止まってよく上を見ると彼らは疲れたどころか動きが止まっていてもう頂上に着いているような感じだった!

「エンドウさん、早く来て…もう空が明るくなり始めてるヨ~…」

“ヤカマシイ!ホットケこのやろう!”ますます息苦しい中で呟く…

それでもやっと皆のいる頂上に着いた時にはもうハーハーゼーゼー膝はガクガク、息をするにも酸素が足りない感じで肺の奥からニコチンの焼ける臭いとヤニが焦げる臭いがし、生臭い唾がダラダラ出てきて思わず座り込んで手を突いてゲーゲー吐いてしまった。ゲーゲー吐いても固形物はなく苦い胃液が出るだけでノドが狭くなった感じで吸う息も少なく頭も痛くなるわ胃袋は痙攣するわでヒドイ目にあった。

皆から心配そうに顔を覗かれたり背中を擦られたり“ウルサイ、 イイからお前らアッチ行け、”と言いたいが声の代わりにゼーゼーハーハーばかりで本当に恥かしかった!!!

それからしばらくして落ち着いてきたが若い連中に情けを掛けられたのが悔しくてこのくらいのことで息が苦しくなるのは体力ではなくタバコのせいなんじゃないかと太陽が地平線から出てくると同時にポケットからタバコとライターを出し頂上から投げ捨てた。

「アフリカの太陽の神様、これから私は一切タバコは吸いません、止めます!」と誓った。

それ以来本当に一度も吸っていない。それで体力が元に戻ったのかどうかそれ以来山に登っていないので判らない。

ドウドウハウス

“月の~砂漠ヲ~ は~る~ ばると~…”、この歌を知らない人はいないだろうし、この歌の中の世界に自分をおいて陶酔しなかった人はいないだろう。しかし仮想の世界の夢物語、本の中の世界としたままそういった世界が現実にあるとは信じられなかったことも確かだった。

しかし、広い砂漠をゆったりとラクダに揺られて行く姿が夢を誘い、なだらかに続く砂丘も本当にあるような気がしたし、本当にあるなら自分もそこに行ってみたいと思った。

1975年10月にスペインのマドリッドを出発しジブラルタル海峡をフェリーで渡ってモロッコに入りそこからサハラ砂漠を縦断し、4ヶ月後の1976年2月にケニヤの首都ナイロビに着いた。

(サハラ砂漠縦断4ヶ月間に起きた諸々については別項で…)

我々がスーダンのJUBAで数日間過ごし国境を越えてケニア北部LOKICHOGIOに入ったのが

1976年2月12日。途中ホワイトハイランドと呼ばれその昔白人が移住したKITALEという町に1泊し、ナイロビに着いたのが翌14日。その頃は初代ケニヤッタ大統領が睨みをきかせておりナイロビ市内を夜の夜中に酒に酔った身体をフラフラさせて歩いていても何の問題もなかった。

一度ケニヤッタ大統領の誕生日に大統領官邸で催されたガーデンパーティーに招待され知人の政府高官に紹介されて握手したが大統領の手が何しろ大きくてがっちりし手の平の肉の厚みが暖かく真夏の野球のグローブと握手したようだった。しばらくはナイロビ近辺のキャンプ場に泊まったり知人の家にやっかいになったりしていたが何しろ気候がよく快適で当分は過ごしてみようと思いナイロビ郊外に手頃な庭付きの1軒家を見つけ日本からの旅行者にも開放した「ドウドウハウス」という民宿らしきことを始めた。

その頃は東アフリカや南アフリカ又はサハラ砂漠へ行きたいという旅人が多くその旅行の情報交換所にもなったし旅の疲れを癒す場所にもなった。又日本から来る人にミソ、梅干、マヨネーズなどを持ってきてもらったり新しい日本の情報も聞けたので大変便利だった。噂を聞きつけていかにも怪しげな旅行者やアメリカ人、ヨーロッパ人なども泊めてくれと言ってきたがベッド数に限りがあったし泊まっている仲間内でトラブルのはイヤだったから人選を厳しくし、ちゃんとした旅行の目的を持った人や自分のことは自分で出来る人だけを泊めるようにした。中には庭にテントを張らせてくれと言ってきた人もいたがいかにも目付き・態度が卑しかったり非協力的な人種とみえたら断るようにした。

食事などは全員で交代で作るか得意な人に腕を奮ってもらい、食事作りに参加しなかった人は後片ずけをすることになっていた。食事をするのもしないのも自由にしその当時のお金で朝食べた人は40円、昼を食べた人は80円、夕食を食べたら120円、宿泊代は160円と決め、宿泊代以外はキッチンに備え付けた帽子大のカゴに入れることにしていた。食べたのにお金をカゴに入れなかった人(忘れた人以外)には即退去してもらうことにしていた。食料の買い物は時間のある人行きたい人がカゴの中から自由に持って行って買い物をし、お釣りは必ずカゴの中に返すようにしていた。こういった約束事をキチンと守れないような人、自分を律することの出来ない人は旅行者として他人の国を旅する資格はないと思うし他人に迷惑を掛けても知らん顔し自分勝手な人達なのでドウドウハウスの宿泊はご遠慮願っていた。

泊まっている旅行者の中に誕生日の人もいてそのような時には飼っている鶏やウサギでお祝いをしたり庭でバーベキューをしたりしていた。温かい日には太めの竹を数本切ってきて庭で流しソーメンなどもしていた。

又このドウドウハウス宿泊中に知り合って結婚したカップルも2組おり、逆にお互いX(バツ)経歴を背負ってしまった人達もいた。

サハラ砂漠を共に旅してきたランドローバーが3台あったのでよく皆で動物を見に国立公園へ行ったり、観光客の行かないリフトバレーの底や鍾乳洞探検をしたりもした。

ナイロビから500km南に行くとモンバサという海の町があり全身をブイブイという黒い布で覆い、目だけを出して歩いているアラブの女性や、カンズというふわりとした白い布を体に巻き風のようにスイスイと歩いている男性を見ることができる。海岸に出ると白い砂浜が10km以上長く続いており手をつないだカップルや犬を連れて散歩している人達をよくみかけた。

そんな中に椰子の樹に囲まれてセルフサービスのコテージが建っており純粋なホリデー気分を味わうことができる。近くでは新鮮な野菜も手に入るし漁師が釣ってきたばかりの新鮮な魚をカゴに入れて売りにくる。最高の贅沢は椰子の実の殻を集めてきて燃料にし、その回りに石を置いて金網をおき伊勢エビ、イカ、タコなどを乗せて、塩を振って生のライムをしぼりむしゃぶりついていくとまるでこの世の極楽であった。

そんな時折の楽しみを続けて10年後、結婚を期にホンワカハウスのドウドウ民宿は閉じることにした。

今は2人の子供も20才を過ぎ間もなく手が掛からなくなるのであの楽しかったドウドウハウスを又始めてもいいかなと思ったりしているが果たしてどうなるか…