ナイロビ近景その①

今日から7月、と言っても月日は時間と共に進んで行く。時間と共にではなく月日自体が時間そのもの。我々人間の好き嫌いに関わりなく人間が認識さえできない空間で時間は生きている。

昔の洒落た人は7月のことを文月と詠んだ。今は知っている人さえ少ないかも知れないが

睦月、如月、弥生~~神無月、霜月、師走という字を見ると「いとおかし」の時代の雅やかな香りと紫式部の名が浮かんでくる。ということで久しぶりに独り言をつぶやくことにした。

僕がナイロビに来たというかケニアに着いた(入国した)のは1976年2月。もっと正確に言うとランドローバー4駆でサハラ砂漠縦断後中央アフリカからスーダン南部を通りジュバを経て国境を越えケニア北部の町ロキチョキオに着いたのが1976年2月8日。その後ロドワー、キタレ、ナイバシャに1泊づつキャンプしながらナイロビに着いたのが2月12日。あれから35年過ぎた。28才の時に日本を出たから人生の半分以上はケニアに住んでいる。後悔はない。

ケニアが英国領から独立したのが1963年、その後ケニヤッタ大統領が睨みを利かせていたのでナイロビ市内を夜でも自由に歩くことができた。市内のメインストリートであるケニアッタアベニューから長い上り坂のバレーロードに到る約2kmに亘り、ジャカランダ並木が濃い緑の葉を繁らせていた。10月の小雨季ともなると紫の花を樹一杯に咲かせその華やかで落ち着いた中に含む清々しさにホット一息ついたりしていたものだ。ナイロビ市のメインストリートである

ケニアッタべニューとウフルハイウエイの交差点に市内でただ一つの信号があってそれも黄色の点滅信号だけだった。道路もきれいに舗装され歩く人もアフリカ人と一緒にインド人、白人も多く歩いていた。夜ともなると市内のバーの前には沢山の車が並び、象マークのタスカービールで乾杯し、その後もゆったりしたいい気分で車に乗って家に帰っていた。細かいことは気にしない住みやすい環境だった。今じゃその優雅な紫も色褪せ信号も増えた。但し信号は増えたが

それを忠実に守るドライバーは少なく、大きな交差店では4~5名のポリスが交通整理に声を枯らし警棒のようなものを振り回しルールを無視する運転手を嚇したりしている。

約20年前程前からナイロビ市内の幹線道路を広げ又郊外に環状線を作る構想があった。しかしその時には市内の交通網は混むということがなく立ち消えになっていた。ところが10年程前にその構想が再燃し、ナイロビ市中心から半径約20kmの半円形のバイパスを通すことになった。そしてその情報を得た関係者は当然のごとくバイパスの通る予定の土地を買い漁り始めた。しかし2007年12月の大統領選挙後その道筋に当る買い占められた家や土地を強制的に没収又は破壊し、値上がりを期待して建てた新築の豪邸を容赦なくぶち壊していった。勿論保障などという甘い考えは一顧だにされなかった。同時に特に朝夕の混雑する道路、市内の混雑の元となる交差点の工事も始めた。そういった殆どの工事を請け負ったのは中国。他の国も入札に参加はしたが全く歯が立たなかったという。

10年程前ある情報通から聞いた話では(勿論秘密だが)中国は今後20年間に1億人の中国人を海外に送り出すという政策を出したという噂を聞いた。本当かどうかは判らないがしかし現状を見ると成る程とうなずけるものがある。ある国際人から言わせると中国人は知恵だけの欧州人と違い実際に現場に出て汗を出して働くからイイ、と言うことらしい。汗を出せばいいというもんじゃないと思うが・・・