ナイロビ近景その①

今日から7月、と言っても月日は時間と共に進んで行く。時間と共にではなく月日自体が時間そのもの。我々人間の好き嫌いに関わりなく人間が認識さえできない空間で時間は生きている。

昔の洒落た人は7月のことを文月と詠んだ。今は知っている人さえ少ないかも知れないが

睦月、如月、弥生~~神無月、霜月、師走という字を見ると「いとおかし」の時代の雅やかな香りと紫式部の名が浮かんでくる。ということで久しぶりに独り言をつぶやくことにした。

僕がナイロビに来たというかケニアに着いた(入国した)のは1976年2月。もっと正確に言うとランドローバー4駆でサハラ砂漠縦断後中央アフリカからスーダン南部を通りジュバを経て国境を越えケニア北部の町ロキチョキオに着いたのが1976年2月8日。その後ロドワー、キタレ、ナイバシャに1泊づつキャンプしながらナイロビに着いたのが2月12日。あれから35年過ぎた。28才の時に日本を出たから人生の半分以上はケニアに住んでいる。後悔はない。

ケニアが英国領から独立したのが1963年、その後ケニヤッタ大統領が睨みを利かせていたのでナイロビ市内を夜でも自由に歩くことができた。市内のメインストリートであるケニアッタアベニューから長い上り坂のバレーロードに到る約2kmに亘り、ジャカランダ並木が濃い緑の葉を繁らせていた。10月の小雨季ともなると紫の花を樹一杯に咲かせその華やかで落ち着いた中に含む清々しさにホット一息ついたりしていたものだ。ナイロビ市のメインストリートである

ケニアッタべニューとウフルハイウエイの交差点に市内でただ一つの信号があってそれも黄色の点滅信号だけだった。道路もきれいに舗装され歩く人もアフリカ人と一緒にインド人、白人も多く歩いていた。夜ともなると市内のバーの前には沢山の車が並び、象マークのタスカービールで乾杯し、その後もゆったりしたいい気分で車に乗って家に帰っていた。細かいことは気にしない住みやすい環境だった。今じゃその優雅な紫も色褪せ信号も増えた。但し信号は増えたが

それを忠実に守るドライバーは少なく、大きな交差店では4~5名のポリスが交通整理に声を枯らし警棒のようなものを振り回しルールを無視する運転手を嚇したりしている。

約20年前程前からナイロビ市内の幹線道路を広げ又郊外に環状線を作る構想があった。しかしその時には市内の交通網は混むということがなく立ち消えになっていた。ところが10年程前にその構想が再燃し、ナイロビ市中心から半径約20kmの半円形のバイパスを通すことになった。そしてその情報を得た関係者は当然のごとくバイパスの通る予定の土地を買い漁り始めた。しかし2007年12月の大統領選挙後その道筋に当る買い占められた家や土地を強制的に没収又は破壊し、値上がりを期待して建てた新築の豪邸を容赦なくぶち壊していった。勿論保障などという甘い考えは一顧だにされなかった。同時に特に朝夕の混雑する道路、市内の混雑の元となる交差点の工事も始めた。そういった殆どの工事を請け負ったのは中国。他の国も入札に参加はしたが全く歯が立たなかったという。

10年程前ある情報通から聞いた話では(勿論秘密だが)中国は今後20年間に1億人の中国人を海外に送り出すという政策を出したという噂を聞いた。本当かどうかは判らないがしかし現状を見ると成る程とうなずけるものがある。ある国際人から言わせると中国人は知恵だけの欧州人と違い実際に現場に出て汗を出して働くからイイ、と言うことらしい。汗を出せばいいというもんじゃないと思うが・・・

がんばれ日本!

4月16日(土)ナイロビ市郊外にあるショッピングモールVILLAGE MARKETの大ホールでケニア日本人会主催による東日本大震災被災者への義援金を募るチャリティーバザールが開かれた。ケニア在住日本人だけではなく世界各国の多くの人々に駆けつけ参加して頂き予想以上の成果に皆様の心を感じることができた。日本人会の幹事の方々が中心となって頑張って下さったがその中でも婦人部の強い結束力が際立っていた。今回の“がんばれ日本”チャリティーバザール実行委員長は日本語よりも英語が母国語に近くフランス語も自由に操るMs.仕事師と呼ばれる女性であり又今年度の婦人部のリーダーはそこにいるだけで周囲が明るくなっていくというM商事ナイロビ駐在事務所所長夫人、会う人全てを魅了してしまう暖かく強い人柄が頼もしかった。

3月11日の地震、津波、火災の災害で多くの方々が命を落とされ又それ以上の行方不明者がいる上に身震いのする原発事故、避難された方々も酷寒の中で食料不足、燃料不足、情報不足とい状況の中で死に物狂いで生きている…。遠く離れて住んでいる我々には何の手助けもできないもどかしさがあった。その中で婦人部会長の発案でこのようなチャリティーバザールを開くことができ参加者の一人として又日本人の一人として感謝の気持ちで一杯になった。

実は僕の実家は宮城県大崎市岩出山町にあり、山形との県境の近くなので津波の直接の被害は受けなかった。しかし姪が気仙沼に住んでおりあの時には目の前50mまで津波が押し寄せて来たという。毎日子供を自転車に乗せ歌を歌いながら家々の間を通って海岸まで遊びに行っていたのが3月11日を境に見慣れた家々が全て津波に浚われ何もない空間になってしまった。すれ違うたびに挨拶していた近所の人々はどこへ行ってしまったのかもう会うことはできないのだろうか…。

姪の住居に直接の被害はなかったがそれ以来電気、水道、ガス、はなし。当然ながら食料もなし。暗く

凍える中で子供と寄り添いご主人からの連絡があることを祈って非常食で食いつないでいたという。

数日後ご主人に会うことができ又つい最近になって電気、水道、ガスが復旧しやっと普通らしい暮らしが出来るようになった。しかしドアーを開ける度に1ヶ月前とは全く違う現実とは思えない風景に身体に震えが走るという。そして尚続く強い余震と揺れに恐くて心も身体も怯える毎日だという。

しかしその姪に対し歯を食いしばって生きろと他人事のようなことしか言えない自分が情けない。

せめて今回のこの義援金が少しでも被害に遭われた方々のお役に立てればと祈るばかりである。

ケニヤッタ初代大統領

ナイロビから北へ車で約15分、ゴルフ場が併設されたウインザーというホテルがある。

そこから更に北へ15分走るとKIAMBU(キアンブ)という町に着く。ケニアの初代大統領MZEE JOMO KENYATTAが生まれた町だ。生まれた時の名はKamau Wa Ngengi。以来数回名前を変えている。Kamau Wa Ngengi⇒John Peter⇒Johnstone Kanau⇒Jomo Kamauそして後にJomo Kenyattaと呼ばれるようになる。彼の一生を追うつもりはないが子供の時から頭脳明晰、大人になってから何度も渡英しそこでマハトマ ガンジーにも会い心理的にも強い影響を受けたとのことである。

ウインザーとキアンブの間にパラダイスロストというピクニックサイトがある。このサイトは今では個人の所有地になっているが1963年の独立戦争の時にマウマウ団の戦士が隠れた洞窟がある。その洞窟の入口付近は古い巨木郡に守られ何やら太古の時代の趣きがある。

今でも一人で近寄るにはある種の勇気が要る。この独立戦争の時に戦った自由の戦士マウマウ団(MAUMAU)の意味はスワヒリ語でMZUNGU AENDE ULAYA、MWANANCHI APATE UHURUの頭文字をとったもの。

MZUNGU(ムズング)・・・・・外国人(一般にヨーロッパ人など白人を指す)

AENDE (アエンデ)・・・・・行かせる、追い出す

ULAYA  (ウラヤ) ・・・・・ヨーロッパ

MWANANCHI(ムワナンチ)・・国民、人々、同胞

APATE  (アパテ) ・・・・・獲得する、得る、

UHURU  (ウフル) ・・・・・自由、解放、独立

直訳すると『外国人(イギリス人)は出て行け、皆で自由を勝ち取ろう』という意味になる。リーダーはジョモ ケニヤッタで1963年6月1日ケニアがイギリスの統治から解放され自治国家となった初代の首相となり、1964年12月12日ケニアが自治国家から共和国となると共に初代大統領となった。

 

1952年2月5日エリザベス王女が25才の時ケニア山麓のツリートップスというロッジに宿泊し、同夜お父上のキングジョージ6世が崩御され女王となられたがその同じケニア山の麓で孫に当たるウイリアム王子がケイト ミドルトンさんと婚約した。ウイリアム王子の母親であった故ダイアナ妃の遺品であるサファイヤアのリングを婚約指輪として送ったという。結婚は来年になるとのことだが王室というところは我々一般市民からは全く想像外の世界だと思うので(僕自身入ったことがないので想像外ということすら想像するしかない)余程の覚悟がなければ好きだ惚れただけでは決心がつかないことではないかと思う。

ケニアは昔は英国の植民地だったが今では中国に植民地化されるのではないかと懸念されるほどで僕なんかもどこへ行ってもニーハオ、ニーハオと言われる。日本や韓国は押されっぱなしで隅に追いやられている感じさえする。このウイリアム王子の婚約を機にケニアも自然や文化の素晴らしさを世の人々にもっともっと知ってもらうチャンスではないだろうか…。

雨の降る季節

以前にも書いたかも知れないが丁度今11月の小雨季に入っているのでその雰囲気を…

ケニアの10、11月は小雨季となり夜又は早朝に雨が降る。時折日中に降ることもあるが大体は夜とか夜明け前に降ることが多い。例年9月半ば頃から紫のジャカランダが咲き始め、10月に満開になる。11月に入るとまだ枝の先に残っているのもあるが殆どは散ってしまう。10、11月の小雨季に対し4月が大雨季となる。ところが4月の大雨季にはジャカランダは咲かない。小雨季になるとジャカランダが咲くだけではなく羽アリも大量に地面から飛び出してくる。体長1〜1.5cm、透き通った4枚羽で夜になると明かりに向かって飛んで来る。

アフリカ大陸の砂漠地帯を除く殆どの国の人々がこの羽アリを食べる。たかがアリと言ってはいけない、普通の蟻と違って栄養がたっぷりと行渡った姿形でどっしりとしており、食料事情が貧しい地区では重要な蛋白源となる。フライパンで2~3分程炒め、塩を振って食べると脂が乗った干しエビの味がする。羽アリが出てきた地面の穴を1mほど掘り下げると丸々と太った白い10cm位の女王がいて、これも又フライパンで焦げない程度に数分間コロコロ転がし、程よいところで熱々のをホウバルとジューシーな中に海老に似た味がして思わず冷えたビールがないかと目をウロウロさせてしまう。

羽アリ以外にも雨が近づくとナイロビフライという怖い奴も飛び出してくる。体長は6〜7mmだが赤い色に黒の線が入って尻尾がサソリのように上向きになり、目に見えない位の超薄い羽で飛んでくる。飛んで来るのは見えないが一度着地すると中々飛び上がらない。

白い壁などに張り付いているのを見るといかにも毒々しい。指で押しつぶそうなんてしたら大変なことになる。例えばそいつに刺されると痒みを覚え、ついつい掻いてしまった所の皮膚が破れ、そこから液が流れ出て、その液に沿って皮膚が被れ、痛いのと痒いのが3ヶ月も続く。治っても被れた後が筋状に残ってしまう。だからもしそいつをみつけたら絶対に触らずに殺虫スプレーを使うか火でやっつける。ライターでは自分の指を焼けどしてしまうのでマッチ棒の方が良い。

所が今年は4月の大雨季の時もそうだったが、この11月も羽アリもナイロビフライも数が少ない。心なしかジャカランダの紫も色が薄かったように思う。理由は判らない。来年は多く出てくるかも知れない。

小雨季でも夜にバシャバシャと降ることもあるが大体は小雨程度が多い。天気の良い昼休みなどナイロビ市内にあるウフルパーク(自由公園)などでは緑の芝生で語り合う若い人達がほほ笑ましい。

我が家の台所では庭に面した窓から棚に置いてある砂糖壷まで小さいアリが行列を作ったり、壁に沿って作ってある棚の陰にピンクの守宮の家族が住みついていて時折キュッキュッキュッと鳴き交わしている。

フラミンゴ

ケニアは地図上で見るとアフリカ大陸の東に位置しており国は概ね5角形になっている。総面積は日本の約1.6倍。東はソマリア、北はエチオピアとスーダン、西はウガンダ、南はタンザニアの各国と接し、南東にはインド洋が広がっている。当然ながらそれぞれ接している国々との間には国境がある。日本は島国なので他国と地続きの国境というものはない。がしかし今でいう県が昔は尾張、美濃、信濃(それがそのまま県になった訳ではない)などと呼ばれていた時代、それぞれの隣国との間には国境(くにざかい)というものがあって自国から他国に行くには関所を通らなければならなかった。関所では挨拶だけで通れた人もおり、身分姓名・他国に行く目的を申し立て、身分証明となる手形を提示しなければならない人もいた。そういった関所は当然ながら人々が往来する道に設けてあり、手形を持たない人は関所を避け山の奥深く茨や潅木で肌をギザギザにしながら山を越えていたのである。いわゆる密入国だ。

ケニアからタンザニアに行くには空路、海路、湖路、陸路がある。それぞれ言うまでもなく飛行機、船、車を使って行く。ケニアを出国しタンザニアに入国するとどちらもイミグレーションでパスポートに出国、入国スタンプを押してもらう。ところが国境周辺に住むマサイの人々は国境だろうが道のないところだろうが何の制約も受けず自由に行き来している。ライオンや象、キリンなどの野生動物と同じだ。動物だけでなく鳥にも国境というものはない。フラミンゴはケニアのナクル湖、ボゴリア湖に多く生息しているが毎年大雨季の前3月~4月になると産卵の為にタンザニアのナトロン湖に飛んでいく。

3ヶ月程経って雛が飛べるようになると親子共々ケニアに戻ってくる。ナトロン湖から国境を越えてケニアに入るとすぐマガディ湖がありここにもかなりの数のフラミンゴがいる。ここは大地溝帯の中でも海抜が低く地中から湧き出て来るのは水ではなくソーダの含まれた約45℃のお湯である。その為15km程下流には塩田があって結構大掛かりな精製工場がある。このお湯の湧き出している所は人が肩まで浸かれる深さになっていてフラミンゴを見ながら温泉気分にひたれる。又すぐ横にテントを張って月の光で何度もイイ気分にもなれる。砂漠の中に湧き出している本当の露天風呂だ。

ところが夜になるとチーターやハイエナがフラミンゴをハンティングに来るのでフラミンゴは助けを求めるように我々人間のすぐ近くまで寄ってくる。普段は50m以内には近づけないのだがこの時ばかりはキャンプから10m位のところまで向こうから近寄ってくる。

ケニアでフラミンゴの生息数で名を知られているのはナクル湖だがその北のボゴリア湖にも多い。ボゴリア湖、ナクル湖、マガディ湖、ナトロン湖は大地溝帯の中で北から南へ殆ど一直線に並んでいる。そしてその全てがソーダ湖で遠浅になっている。そして又餌を求めてフラミンゴはこれらの湖を移動するが移動はいつも夜である。それも満月ではなく満点に星がキラメイている夜に限られる。朝目覚めてテントから出て見るとフラミンゴが全くいなくなっていることがある。『ア~、夕べの内にボゴリアに移ったんだナ…』とフラミンゴの姿が見えない淡いウツロな戸惑いの中でそれでも野生の時が進んでいたその中で自分も呼吸をしていたんだということに温かいウレシサがあった。

サファリその⑤

サファリツアーは大きく分けてロッジ宿泊とキャンプ場宿泊の2つがある。

ロッジは石造り、板を利用したコテージ風、丸太を使ったログハウス風、キャンバス生地のテントロッジ式などがある。キャンプ宿泊は国立公園内又は国立保護区内にあるキャンプ場に2人用テントを並べランプ生活をする。食事は専用のコックが作ってくれる。

*ロッジ宿泊の利点

1.リゾート風雰囲気の中で気分が満たされる。

2.保護された敷地内で安心してリラックスできる。

3.いつでも熱いシャワーを浴びられる。

4.トイレも水洗で快適。

5.夜は発電機によって電気が供給されるので途切れることがない。

6.スタッフの対応も概ね納得できる。

7.毎日、朝昼夕決まった時間にヨーロッパ風食事を楽しめる。

8.ディナータイムの装いに小さな興奮を感じる。

*キャンプ生活をお薦めする理由

1.何と言っても野生の息吹を肌で感じることができる。

2.キャンプファイヤーを囲んで“サファリの気分”に浸れる。

3.サファリドライバーと直に色々な話ができる。

4.沈みゆく夕陽の中で食事作りに参加することも可能。

5.時折は現地食を味わうことができる。

6.ランプの灯りの世界で過ごす体験は貴重なものとなる。

7.人種・肌の色が違ってもキャンパー同士不思議な連帯感が生まれる。

8.夜は信じられない位の星の数に圧倒される。

僕自身はなんといってもキャンプ生活が肌に合う。子供の頃から山に入るのが好きで落ち葉の匂いのする木々の間を歩いたり、鳥や昆虫などと遊んだりするのが嬉しかった。

大人になってからも車にキャンプ用品などを積み込み、奥秩父や伊豆の山奥の渓流のその上流のその又上の源流近くにテントを張って夜を過ごすのが好きだった。下流の河原にテントを張り、釣った魚を焚き火で塩焼きにし川の水で冷やしたビールで乾杯するのもいいがそれだけでは只楽しむだけで自分の心の中の征服欲が満たされないのである。

落ち葉に隠された岩肌の裂け目から水の湧き出ている所を探し出し、その横で一晩過ごすとその源流が渓流になりそれが川になり、もっと広がって河になりそれがやがては海にそそぐようになるその大自然の営みの支配者になった気分になるのである。これは単に独りよがりで自己満足に過ぎないが、誰もいない山奥の冷たく澄んだ静けさの中でチロチロと流れ出る水の音に心を開くと何かにコンタクトされているような感覚が得られた。

サファリその④

『サファリに行く』と言っても色々とある。昔流に言えば銃を持って動物をハンティングに行く、現代風に言えばカメラを持ってカメラハンティングに行く。

広い大地で自由に走り回っている動物を見て感激する人もいる、カメラも持たず特別の動物がみたいということもなくサバンナの風景に涙を流す人もいる、ライオンのハンティングを見たいという人もいる、リゾート風のロッジのプールサイドでグラスを傾けるだけの人もいる、キャンプファイヤーが好きな人もいる、マサイ族のジャンプを見に来たという人もいる、気球に乗って空からサバンナの動物を見たいという人もいる、公園以外の場所ではビクトリア湖でナイルパーチを釣り上げたい、ラフティングをしたい、サバンナで乗馬をしたい、ナイル川でバンジージャンプをしたいなどという人もいる。

しかし中にはもっとドロドロした『エっ?まさか冗談だろ!』と思わせる人もいる…

フラミンゴと一緒に飛んでみたい、シマウマに乗りたい、ゴリラのドラミングを聞きたい、

キリマンジャロの頂上で凧を揚げたい、キリマンジャロの頂上からゴルフボールを打ちたい、キリマンジャロの頂上からスキーで滑り降りたい、キリマンジャロの頂上からパラグライダーで飛び降りたい、キリマンジャロの頂上でお神酒を奉げたい、チーターに頬ずりしたい、動物の間をオートバイで走りたい、レンジャーになりたい、ダイヤモンドを掘りたい、夢見るタバコを吸いたい、B型肝炎なんて怖くないなどなど…。

色々と制約はあるがお客様の希望をかなえてあげるのが我々サービス業に携わる者の努め。

不可能と思えてもやってみなければ判らない、ここはアフリカ、何でもありのアフリカだ!何とか希望をかなえさせてあげたい~と無い知恵を絞りに絞りドロドロの希望を全て実現させてあげたことは自分でも自慢できる(かな…?)。色々と制約があるので全てを公けにできないが、例えば・・・

*フラミンゴと一緒に飛んでみたい・・・ライトプレーンというプラモデルに自転車のエンジンをくっつけたような飛行機でフラミンゴと併走(併飛行?)した。

*キリマンジャロで凧を揚げるとどうなるか・・・何しろ6000m近い頂上だ、風(と言っていいかどうか)は殆どなく、あっても上に行かず下に向かって行く。だから凧下げになってしまう…。

*チーターに頬ずりしたい・・・ナイロビ動物孤児院に保護されているチーターの兄弟がおり飼育係りのオジサンと一緒であれば檻の中に入って一緒に寝転ぶこともできる…。

*動物の間をオートバイで走りたい・・・国立公園内や国立保護区内を走ることは禁止されているが公園の外なら構わない。マサイマラの外周に沿った道をシマウマやキリンなど横目に見ながら走ることができる…。

*レンジャーになりたい・・・タンザニアのモシという町にMWEKA COLLAGEというワイルドライフ専門学校がありそこでレンジャーになる為の基礎を教えてくれる。キリマンジャロの麓にあって空気も澄み、のどかな国柄なので全てがゆったりとし、講義は英語とスワヒリ語。しっかりした寮もあり過去3人の日本人が卒業している…。

*ダイヤモンドを掘りたい・・・東アフリカではガーネット、ツァボライト、タンザナイトなどはあるがダイヤモンドは南アフリカに行かなければならず又我々の管轄外なので掘らせてもらえるかどうか不明なのでナイロビ近辺の山でガーネットなどに挑戦してもらうにとどめた。

サファリその③

『サファリ』というと昔は『狩猟旅行』という意味だった。野生動物、特にビッグ5と呼ばれる象、ライオン、サイ、バッファロー、ヒョウを銃で撃ち殺すことだ。これら動物を1頭につき幾らと金を払い、銃で撃ち殺すことをハンティングスポーツと言っていた。

殺した動物の毛皮は剥製にし、自分が住む家の応接間に飾ったりし、訪れる友人・知人に

自慢げにその時の様子を得意になって言って聞かせるのが自慢だった。そういう人達が今は動物愛護だとか自然のサイクルに影響するとか言って動物を保護する目的で寄付金を募ったりしている。

最近は『サファリ』というと国立公園内に住む野生の動物を車で見て回ることを言うようになった。そしてその野生動物を探しながら回る車をサファリカーと言いそのサファリカーを運転するドライバーをサファリガイドドライバーと呼ぶ。いわゆるただ単にやみくもに車を運転するだけではなく、どこに行けばどういう動物が見られるかという情報を的確

に把握し、動物の生態をお客様に説明しなければならない。あれはキリンです、これが象ですというだけではサファリガイドドライバーとは言えない。

当ドウドウワールドのドライバーは殆ど10年以上働いているが、お客様を乗せて走るその責任の重大さ、動物を見せるだけではなく各々の生態・特徴を説明しなければプロとは言えないその大切さ重要さを認識・理解させるのに5年以上掛かった。

実は僕自身1976年から1990 年頃まで自分でランドローバーにお客様を乗せて走っていたのでケニア・タンザニアの国立公園内の道路の状況・要する時間、動物を見るベストな時間帯など自然に身体で覚えていた。だからドライバーが色々なミスの言い訳をしてもすぐに判る。

車を運転する3か条は第一に事故を起こさない起こされない。第2に乗っているお客様に緊張感・不安感を与えてはならない。第3は自分で運転を楽しんではいけない。簡単なようだがこれが実に難しい。初めの内自分では事故は起こさないと思っていても万が一他の車に追突・衝突された場合はどうするかと聞くと『オー、イッツアクシデント!」『自分の責任じゃないからどうしようもない』と言う。事故を起こされてもそれはお前の運転にも原因があるからそうなるんだ、ということから教えなければならない。

自分では旨い運転だと思い、速度が遅いと却って振動が激しいなどといって砂利道などの悪路をむやみにスピードを出して突っ走るドライバーがいる。そういうドライバーには車の座席、特に後部座席に座った人がどのように感じるか、実際に体験させる為、そのドライバーを後部座席に座らせ、わざと凸凹道を選んでかなりのスピードで突っ走ってやる。

すると『ヒャ-、ミスターエンドウこれじゃ怖くて危ないよ…舌噛んじゃうし頭の中が酔っぱらったみたいにフラフラししまう。もっとゆっくり走ってくれ!』と情けない声を出してくる。これを数回繰り返してやっとお客様の立場に立って感じ、考えることができるようになる。当ドウドウのドライバーは何百回となく国立公園への道を走っていてどこでどう曲がってどこに穴があるかなど目ではなく身体で覚えているのでスピードを出せるところは出すが道の状況によっては速度を落としてゆっくり走ることもある。これを真似して経験の浅いドライバーは自分も大丈夫だなどとスピードを出すが結局砂の轍に入り込みハンドルを取られて横転してしまうことになる。

サファリその②

ケニアは野生の王国、動物天国として世界に知られている。シーズンともなればこの大自然の中で繰り広げられる壮大なドラマを見ようと世界中から人が集まってくる。そういった人達は観光客と呼ばれる。その観光客を乗せたサファリカーを運転するドライバーをサファリガイドドライバーと呼ぶ。以前は観光省管轄の専門学校で2年間、一般道路は勿論国立公園内のサファリカーでの走り方、野生生物・動物の知識や見分け方、お客様に対する説明の仕方、接客マナー、万が一の場合の対処の仕方など旅行業全般に亘る勉強をし、卒業しなければ仕事に就けなかった。

ところが近頃はPSV(Public Service Vehicle=商業用)ライセンスを取れば誰でもサファリカーを運転することが出来るようになってしまった。サファリカー以外にもバスやタクシーなども運転できるようになっている。それの取得方法は非常に簡単である。

1.CID(Criminal Investigation Department=秘密警察のような機関)でGood Conduct(犯罪歴がないという証明書)を発行してもらう。

2.道路交通警察署でPSVライセンスを申請する(条件は22歳以上=普通免許は18歳で取得可能でその後4年経てばPSVライセンス申請が出来る)。

3.上記1と2を運転免許発行機関に持参し約US$80を払えばすぐに発行してくれる。

このPSVをとれば国立公園に行ったことがなくても、今まで動物を見たことがなくても立派にサファリカーを運転できるのである。ヒドイのになると観光省に届けをしていない、所謂モグリの旅行業者など、PSVどころか車の運転さえできればイイというその辺から連れて来た運転手に車を運転させることもある。そういったドライバーはもしサファリの途中に事故にでも遭ったりすると車もお客さんも放り出して逃げて行ってしまう。だからケニアに観光に来る予定で予約をする場合まず以下の件を確認した方が良い。

1.       旅行を依頼する会社がケニアの法務局に登録し、事業の認可(Registration Certification)を受けているかどうか。

2.       同様にその会社がケニア観光省(Ministry of Tourism & Information)からの営業許可を受けているかどうか。

3.       同様にその会社がケニア観光旅行業界(Kenya Association of Tour Operator)の会員になっているかどうか(いい加減な会社は会員になれない)。

4.       又自分達の乗るサファリカーを運転するドライバーの名前、PSVライセンス、年齢、経験、雇用年数などの確認も必要。

予約する前に以上のことを問い合わせ、すぐ返事が来ないとか催促しても返事を渋るようならその会社に頼むのは止めた方が良い。そうじゃないと万が一の場合の車の事故、ホテルやロッジの予約のトラブルなどがあっても責任は取らないし返金もしない。全て泣き寝入りとなる。このようないい加減なエージェントとの間のトラブルを過去数十回見聞きしており、その都度被害者が

大使館に駆け込んで行く。日本大使館の目的の一つに邦人が被害に遭った時のパスポートの再発行や地元警察への通報はしてくれるがそれ以外の事柄に付いては自分の責任で処理しなければならない。自分のことは自分で責任を取るという事は当たり前のようだが、イザ自分が実際にそのような目に遭うと錯乱状態になり、周りにすがり付いてしまう。何故自分だけがこんな目に…と訴えても、『よくあることですよ、だから気を付けなさいと言ったじゃないですか』と言われてしまう。前期のような出鱈目なモグリ業者は異常に安い料金をお客様に提示し、現地で不必要なオプショナルを強制したり、途中の土産物屋に連れて行って無理やり買わせたりし、そこで利益を取り返そうとする。

ふれあい祭り'09

9月26日(土曜日)、ケニア日本人会恒例の【ふれあい祭り】が開催された。場所はナイロビ市郊外にある日本人学校グラウンド。今年は特に日本人会会長の卓抜なアイディアを盛りこんだ

プログラム、日本人学校校長先生の強いリーダーシップ、教頭先生の堂に入った采配ぶりで実に楽しいお祭りだった。グラウンドの中央に設えられた舞台でそれぞれ趣向を凝らした催し物がでたが特に印象的だったのが、ノド自慢大会で「オーソレミオ」を歌って優勝した日本国大使の声量と音域は音楽関係者が聞いたら絶対に勧誘に来るだろう程のものだった。

今年も各ブースの出展者はそれぞれの出し物に工夫を凝らし、食べ物関係では築地の板前さんも唸る味を出していたようだ。特に「焼き鳥屋さん」は酒のつまみとしては遠慮した濃さだったが前夜来の下味が効をナシ、柔らかさも申し分なく、売り子さんも若く粋な女性が担当しフレッシュな味だった。

当ドウドウワールドの今年のメインの出し物は『たこ焼き』。今年は黄色いT-シャツの上に黒い前掛けで統一し、この30℃を越す炎天下で果たして売れるか、と心配だったが売り出し開始後2時間で殆ど売りきれてしまった。

…というのは表向き…実際には非常に焦った一幕があった・・・

自分がタコを用意する担当だったのだが3日前に魚屋で3匹買っておいたにも係わらず当日の会場で焼き係り女性スタッフから、

「エンドウさんこれじゃ足りませんよ!」と言われた。

「エッ、だって計算では足りるハズだけど…?」

「そんな何を計算してたんですか、すぐに買いに走らなきゃダメですよ!!!」

「エ~~…そんな~…今から~…?」

「今も何も全然足りませんよ…!」

それじゃ~、とオロオロしながら1人ナイロビ市内の魚屋まで車で走らせ、幸いにもまだ家に居た家内に電話して大至急鍋にお湯を湧かせて待つように言い、買ったタコを茹でて会場まで持ってこさせ何とか間に合った・・・!最終的にはタコ5匹分のたこ焼きを皆様に食べて楽しんで頂きホットしているのところ・・・

初めは全くの素人が出来る訳ないじゃないか、と自分でも諦める気持ちもあったりしたが回りの方々から教えて頂き、スタッフ全員で半年前から何度も練習し、焼き過ぎたり形が崩れたり失敗を繰り返しながら何とか「ふれあい祭り」で売ることが出来た。これも皆様のご指導ご鞭撻ご協力のお陰と感謝の気持ちで一杯です・・・。

来年の「ふれあい祭り」でも是非やって欲しい、と言ってくれる方もいるし折角日本から運んで来た「たこ焼き器」もあることだし、次回は一味も二味も違う本場の“大阪たこ焼き”を食べて頂こうかと考えているところ。それにしても来年は計算の方は生き生きした若い脳味噌に任せなければいけないかな、と反省というより事実をしっかりと認識しなければならない現実に恐れおののいている…

万が一

我々はよく万が一の為に、ということを想定し、その可能性は低いがもしも起こったら、という

場合の為に必要な予防措置を取る。大丈夫そんなことは有り得ないだろう、とは思いながらもしも何かの偶然でトラブルがあったら…と…。その万が一というのにも色々あるが失敗・間違い・勘違い・事故・病気・などなど…日本では万に一つというがアフリカでは百分の1イヤ10分の1の確率で色々なことが起きる。そうなったらもう50/50で起こると考えた方がよい。我々ケニアに永く住んでいると万が一とは言わず日常茶飯事と言っている。例えば人と人との間でもよく勘違いが起きる。口頭でお互い納得し合ったと思っても、こちらが勝手にそう思っただけで相手はその時にはイエス!イエス!と言ったにしろ先ずは納得していないし理解もしていない。後であー言ったこー言ったイヤ聞いていない…などのトラブルが起きるので大事なことは必ず紙に書きお互いサインをし書面に残しておかなければならない。

車に乗っていて交差点に差しかかり、赤信号に変わったので止まると後ろから追突されることもよくある。追突した方は絶対に車から降りてこないのでこちらから降りていって「スピードの出し過ぎじゃないのか又はあんたの車はブレーキが利かないのか…」というと「信号は青だったのに何でお前は止まったんだ…」とくる。これがもし裁判になると「この日本人は青信号で止まった」となる。裁判で証人席に立ち、聖書に手を置いて宣誓はするが「私は自分の不利益になるようなことは一切言いません」ということを誓うということだ。

万が一に当てはまる言葉は英語では“in case”とか“in nine cases out of ten”(十中八・九)と言ったりするがスワヒリ語にはそのような言葉はない。何故ないか…万が一ではなく日常茶飯事だし、将来何が起きるか判らないから何もしない…ということだ。但しIKIWA(イキワ)という言葉があって英語での“if”と同じ意味ならある。イキワヨイヨイ帰りにイフ…なんてのは冗談だが日本語の“もしも”と同じ意味になる。何が起きるか判らないのに心配してもしょうがないという考え方だ。僕の周りにもしっかりと教育を受けた知識人がいるし僕のような平凡な人間など及びもつかない明晰な持論を展開する人もいる。しかし大概のアフリカ人は“日本人は恐がりで心配ばかりしている”と思っているようだ。

いつだったかマサイの友達が遊びにきて帰る時…

「オイ、コイカイよ雨が降りそうだけど傘持って行くか…?」

「心配するな雨の匂いはしないから大丈夫だ…」

「もし降ったら濡れて風邪引くぞ…」

「ノープロブレム、雨が降ったら木の下に行くし止まない雨はない…」

「ジャ~今しばらく待ってみるか…?」

「エンド、心配するな雨は神様の恵みだし、もし降ったらオレの牛も喜ぶよ…」

いつものことながらどうも話しの焦点がズレがちになる…

確かにナイロビの雨は通り雨が多く、歩いていて突然降り始めたら近くのホテルとかビルの入り口に立って待っていると15分位で止んでしまうことが多い。そんな時突然隣に立っている人から「こんにちは」と声をかけられることもある。話していくと日本に技術研修で行っていたことがある人だったりし、以後仲良くなったりすることもある。これなんかは日常茶飯事とは言えないので偶然ということになる…。

花色の誘惑

ナイロビには花が多い。車に乗っていても歩いていてもどこへ行っても目につく。

特にブーゲンビリアが多い。季節に限らず赤、赤紫、青紫、ピンク、白、黄色など花の色の種類が豊富で、公園の近くを歩くだけで非常にカラフルでついウキウキとしてくる。そこに咲いているのが当たり前という雰囲気で静かに自己主張している。市外に出ると家の周囲にキレイに植え込んでいるところもあり、白い壁との調和が楽しい。その派手やかな花の下には細く鋭い棘がついており、隙間なく植えると犬や猫でさえも入って来られない。側に高く延びる樹があるとそれに寄生してどこまでも高く伸びていく。

ケニアの10、11月は小雨季の時期になるが、その少し前9月末頃になるとナイロビ中のジャカランダの樹が一斉に紫の花を咲かせる。1カ月以上は咲き続けるがその紫の花が散ると道一杯に広がってまるで紫の絨毯を敷いたようになる。週末になると市民がよく集まる公園があり、その奥まったところに特別見事な花を咲かせるジャカランダがあり、子供を連れた家族がその前で写真を撮ったり若いカップルが語らっていたりする。

 

僕の家から2kmほど行くと花を売っているガーデンがある。日本とは違ってそれぞれ種類ごとの花壇があって、根の付いたままを売っている。そこでは花だけではなくオーガニックなハーブ類なども売っている。ナイロビの今の季節は日本でいうと冬が明ける頃で、咲いている花の種類も少ないが休日の散歩には持ってこいの雰囲気なので時折遊びに行く。

実を言うと僕自身、花にはそれほど興味を持つ方じゃないが家内が結構好きなので買ってきては自宅の庭に植えたりしている。僕の場合はイチゴ、マンゴ-、アボカドなどどちらかというと

腹の足しになる実用的なものに惹かれる。

つい2~3日前に家内が「ネ~ネ~チョット来て~」とキャーキャーいいながら走ってきたので「何だ又ヘビでも出たのか…」と思ったが「桜の花が咲いたワヨ~…」と満面ピンクにして興奮していた。今年は庭に桜の苗木を植えてから16年目になる。昨年までは咲いたといってもホンのチラホラで「やっぱりナイロビじゃ無理かな…」と半ば諦めていた。ところが今年はオ-ッ!と思わずホホも緩んでくるほど見事に咲いた。日本のように花の下にゴザを敷いてとまではいかないが、ピンクの花びらをグラスに浮かせ風流な気分に浸った瞬間、思わず昔の花の色香を連想してしまい「何を思いだし笑いしてんのよ…!」と睨まれてしまった。

昨日・今日・明日

大分前になるが白黒からカラー映画に変わる頃、ソフィアローレン主演の「昨日・今日・明日」という映画があった。それ以外にも「ひまわり」などを始めソフィアローレンの出ていた映画は沢山あり、それを観たさに毎週のように映画館の前を通り予告編を楽しみにしていた。勿論それ以外の映画もめったやたら観ていたのでストーリーがゴッチャになってどれがどれだか区別がつかなくなってしまったものもある。その当時の他の有名な女優さん達と美しさや知的さでは一歩譲るが何しろあの独特の存在感が堪らなかった。岩の上に長い足で立ち、荒れた荒野を見据えた時のあの逞しさ、かと思うと舞踏会でみせる雅やかな踊り、強く構えた中に潜むおふくろ的暖かさと、女としての優しさがズーンと響いてきてもしかしたら一目惚れしていたのかも知れない。 

ナイロビには全く名前がその通りのYesterday,Today and Tomorrowという花がある。元々は

ブラジルから入ってきた花でシュラブ系ナス科に属する。花の色が昨日は青紫、今日は薄紫、明日は白と変化する。夜になるとその花は非常に魅惑的な香りを周囲に漂よわせ、近くを通ると

つい引き寄せられてどうにも立ち去りがたくなる。

ケニアの人々の間ではTomorrowとかNo problemいう言葉がよく飛び出す。日本人の概念としてTomorrowというと当然のように「明日」と思うのが普通だがこちらでは「その内に」とか「いずれは」とか「もし可能ならば」いう意味合いが強く、将来に向かってということを意味する。

確かに間違いではないがしかし例えば「今日は時間が取れないから明日13:00に中華料理店で会おう」と言うと殆ど間髪を入れずに「OK!No problem!」と返ってくる。翌日になりこちらはいかにも日本人らしく約束の15分前にその中華料理店に行き、一応テーブルの空きを確認し窓際の良い席を確保しておく。それから30分待っても1時間待っても相手は現われない。結局来ないので店の人に折角良い席を予約してくれたのだが、と謝ってバツの悪い思いをしてしまう。

相手に電話をすると…

「ユーノー、さっき政府の大事な人からお昼を誘われたのでそっちに行けなくなった」

と平気で言う…

「何だヨ、ジャ~それならそうと電話をくれればいいじゃないか」

「ユーシー、忙しくてヒマがなかったんだ」

「なんだよ、このやろ~こっちより大事なら今後二度と昼メシなんか奢ってやらないからな…」

「ノーノーノーエンドウ、そんなことじゃない、お前も大事だよ…」

もうこれ以上言っても無駄なのでイキナリ電話を切ってしまう。

 

ところが別の日に別の用事で会う約束をし、当日は車の渋滞などで思ったより時間が掛かり遅れてしまうような時、“どうせ相手も遅れてくるだろう”と多寡を括って行くと相手が既に来て待っていることがある。そんな時…

「エンドウ、お前日本人なのに約束の時間を守れないのか」と来る…

「イヤ~ワルイワルイ、交通渋滞がヒドクて…」などと言ういい訳が何となく自分もアフリカ人になってしまったようできまりがワルくなる。

もう一つよく使う言葉でON THE WAY COMINGというのがある。矢張り約束の時間通り現われない場合、相手に電話をするとこの言葉が出て来る。実際には約束を忘れてしまい驚いてこれから出る時にこのように言う。車で30分以上掛かるのに「アイム オン ザ ウエイ カミング ウエイト フォー2ミニッツ」と言う。これなんかは全く嘘を言うつもりなんかはなく、コチラが心配しないように、必ず行くから心配しないで待っていてくれ、という“心づかい”から来るものと思うしそう信じたい。

しかし普段から自分がよければ他人はどうでも構わない、といいながら自分の家に人を呼ぶのが好きでその時には特別のご馳走ではなく普段食べているものを出してくれる、それが家庭の温かさが出ていて嬉しくなる。いかにも貴方の為にこれだけの料理を用意しました、というのを出されるとどうも他人行儀な感じで気持ちが冷めてしまうものだ。

 

ナイロビ市内ではつい最近までいたるところにパーキングメーターがあった。車をパーキングする際、たまたま手持ちにコインがなく、近くに屯している子供にチョットお金を貸してくれと言うとサット来てメーターにコインを入れてくれて、ニコッと笑って行ってしまう。料金は1時間で約10円だったがそんな時には思わず100円のお小遣いをあげたくなってしまう。

そういった子供達が次の日は包帯で腕を吊るしたり松葉杖をついていかにも悲しそうな表情で近寄って来る。そこへポリスが通りかかると松葉杖なんか放り出し物凄い勢いで走って逃げて行ってしまう。

このパーキングメーターは故障が多く大分前に撤去され、代わって出てきたのがナイロビ市役所から派遣された黄色いユニフォームを来たオジサン・オバサン。小切手帳のような駐車券を手に駐車しようとする車が来るとサーッと近寄って行き料金を徴収する。去年までは日本円で約100円だったのが今年に入り2倍の200円になってしまった。しかしその領収書兼駐車券をダッシュボードにおいて外から見えるようにしておけば、その日1日中駐車区域ならどこへ駐めても構わない。他に車を駐められるところというと市内の空き地を有料駐車場にした青空駐車場がある。駐車料金というよりショバ代を払わされてる気分になってしまうが駐めている間に何があろうと責任は取らない。その車の間を洗車ボーイがバケツと雑巾を持ってさかんに動き回っている。普通乗用者タイプで100円程で、お金を貯めてどうするんだと聞くと“自分の親が誰なのかどこにいるのか知らない。お金を貯めて学校に行って勉強するんだ。大きくなったら車の修理工場を持ちたい”という。過去は恨まず明日に向かって生きる子供達を見るとこちらの気持ちも暖かくなってくる。このような子供達がもっともっと増えてくればケニアの将来も捨てたもんじゃないのだが…。

タラ・レバ

今年ももう後半の7月に入ってしまった。陰暦では文月という。“陰暦”とか“文月”とか又々そういった言葉の言い方・読み方を調べたくなる虫がムズムズしてきたが、面倒臭くっても中途半端がキライな性格なので一度辞書を開き始めると仕事も手につかなくなるのでその内時間がタップリある時に調べようと後回しにする。ただ文月と聞くとどういう訳か紫式部や清少納言の名前が思い出され、優雅で艶っぽい雰囲気に恋焦がれる気持ちになる。そこで久しぶりに独り言を書くことにした。

色々と仕事の関係や個人的な故障があって4月以来中休みをしてしまったが友人・知人や思いがけない人から「最近独り言を書いてないようだけど…?」と心配してくれるメッセージが届き、

ビックリするやら嬉しいやら恥かしいやら複雑な気持ちになり「エッ、怠けてらんないナ~」と

自分に鞭打つことにした(中途半端もいいとこだ)。

 

ゴルフをしない方には大変恐縮だが、プレーする人なら誰でも知っているタラ・レバという言葉がある。「あの時これをこうしていタラ…」「これをこうやっていレバ…」という、打ったボールがチョロしたり藪に飛びこんだりした時の自分に対する叱咤、憐憫、後悔の込もった反省の呟きだ。ひどい時には自己嫌悪に陥り「全く俺はダメな奴だ!」と自虐的になったりする。

好きになってしまった女性に思いきって愛を告白し、相手に迷惑そうな目付きをされて「困ります!」といわれ、これ以上しつっこくしたら迷惑を掛けてしまうナ、益々嫌われてしまうナ、ヤッパリ俺はダメなんだ…というのとはチョット違って己の未熟さが情けなく、怒りのやり場を求めてクラブやキャディーにヤツ当りしたりする。

ボールを打つ前の頭の中は腕をこうして、手首をこうやり、肘はこうやって、肩をこうすれば、トップはこうなって、膝はこうなり、目はこのままで、フォロースルーがこうなる…などなど色々なことを順序建てて考え、その通りにやろうという気持はあるが、せいぜい2秒間のスイングの中で全ての動作を順序立ててできる訳はなく、イザクラブを振り上げた途端そんなことは全部どっかへ行ってしまい人より遠くへ飛ばしたい欲ばかりで手でこねてしまい、ボールの行方が心配でボールを打つより先に目が上がりヘッドアップの常習犯となってしまう。

「なんで俺はこうなんだ、どうしてこういう簡単なことができないんだ!」と自分を卑下することの繰り返しである。そんな時はもうゴルフなんかしたくない!辞めた!」と何度思ったことか…

それがワンラウンド中に一回でもイイ当りをするとその快感が堪らなく、それがもし2回、3回とあるともう辞めようと思ったことなんかケロッと忘れてしまう。

 

アフリカではゴルフでなくても普段の生活の中で何故?どうして?という疑問の呟きが日に数回は出て来る。「何故こんなことができないんだ…?」「どうしてこんなことをするんだ…?」という不可解な思いである。しかし考えてみれば日本は紀元前3世紀頃から米を作り始め、人々は集落を作って共同生活をするようになり、特に弥生時代の後期に卑弥呼が出て来てからは他人に迷惑を掛けてはいけない風潮が浸透して行った。そして墳丘墓が作られ又外敵から見を守る為に2重、3重の柵を建てたり10m以上の高さの物見やぐらを作ったりした。これなどはしっかりした計測をしなければ作れなかったものである。このような人との触れ合いや物事を“キチン”とするとか“けじめ”とかいう生業(なりわい)が日本人の血の中に流れてきていると思う。

現代になって幼稚園の時から絵を描くことや字の読み書きを習い、家の周りを見ても道はキレイに舗装され、その道に沿って家々もキチンと建てられ、洗濯機、テレビ、冷蔵庫、車は当たり前になっている。

紀元前3000年頃にエジプトでピラミッドが建てられたがケニアではつい最近まで生活の営みを雨、風、太陽など自然の恵みに頼り、時折狩りをし、何の心配もなく暮していたのである。

それがペルシャ、ポルトガルなどの後に英国を始めとするヨーロッパ諸国が侵入し彼らの言う文明の利器を押しつけ始めた。それが結果的に良かったのかどうかそれぞれの判断にお任せするが1963年に英国から独立後も生活の主流が農産業ということは変わらず、都会以外では牛1頭と数羽の鶏を飼い、わずかなトウモロコシを畑に植えてという貧農が多いことに変りはない。家畜の世話、畑の耕作、子供のお守など働く姿は女性が多く、道端で寝転んでいるのが男だった。

僕がナイロビに来たのは1976年だがナイロビ市内でも裸足で歩く人が多く、ナイロビ市内のメインストリートに信号機がやっと1台あるだけだった。それも常に黄色の点滅だけだった。

このように生きて、育ってきた歴史が全く違うのだから自分が暮してきた環境での常識で話しをしても通じる訳はなくよく日本からのビジネスマンがつい「なんでこいつらはこんなにバカなんだ!」と呟くのを聞いたことがある。しかしそうではなく大事なのは自分の固い脳味噌を柔らかくし相手の歴史から半強制された状況を把握し相手が理解できる話し方をすることである。それをしなければ研究不足・勉強不足・努力不足・認識不足ということになりアフリカでは生き残れない。相手を責める前にまず自分の怠惰を恥ずべきである。自分が生まれ育った国とは全く違う環境の中で生活しなければならないならその国のことを知らなければならないのは当然のことである。

 

話しは冒頭に戻って、私は毎日朝07:00にはオフィスに出てセキュリティーを解除し、メイン

コンピューターのスイッチを入れ、コーヒーを入れ、メールのチェックをする。

7,8月のナイロビは1年で最も寒い季節にはいっており指先に息を吹きかけながらキーボードに向かうことになる。今日は7月7日、夜空一杯の宇宙の七夕を楽しもう・・・

酒とタバコ

僕の生まれた町は宮城県北部いわゆる故郷(フルサト)と呼ばれる岩出山という名前の町。奥羽山脈の裾野が張り出してなだらかな平野につながり、稲田が遠くまで広がって夏は緑が濃く、秋が近い敬老の日ともなると小学校、中学校、高校など町中の子供達がイナゴ取りに狩り出され小学校の広い校庭に大きい鉄鍋が10以上も並び、町内のオバサン達が一つの釜に5~6人程掛かりワイワイ言いながら子供達が取ってきたイナゴを砂糖と醤油で煮たりしていた。他のオバサン達はイスやテーブルを並べたり皿ダ~箸ダ~柄杓ダ~ナンダ~カンダ~と賑やかでお祭りのようだった。煮こんだイナゴは町内のお年寄りに食べてもらったり、子供達にもおやつ代わりに分けてもらったりしていた。僕が育ったこの町は世間でよく言う田舎町ということになるのだろうけど子供の時分には自分は田舎者だなんて思いもしなかったし自分の住む世界が全てだと思っていた。岩出山という名前から想像するといかにも岩や石がゴロゴロしているような印象を受けるが町全体は低い丘陵地帯に囲まれた静かな田園風景の広がるのどかな町だった。東京から新幹線で約2時間、古川で奥羽本線に乗り替える。古川から岩出山までの車窓から見る風景は遠くに奥羽山脈の連なりが見えその山の麓まで水田が広がっていて“イヤ~こんなキレイなところでオレは生まれたんだナ~!”と何となく嬉しくなって“田舎と呼べるところがあって良かったナ~!”と思う。何が良いのか具体的には表現できないが子供の頃には殆ど毎日山の中に入って遊んでいた。どうやって何をして遊んでいたのか今じゃ思い出せないが森や林の中を歩き回るだけで楽しかった。ブナ、楢、楓、杉、椿などそれ以外にも名前は忘れたが沢山の種類の木があったことは覚えている。

特に夏から秋にかけてのシーズンには野生の果物が沢山採れるしそれらの甘い香りのする中を歩いていると自分は1人じゃないんだという安心感があっていつもだれかが一緒にいてくれるような不思議な感覚があった。

町を挟むようにその両側には鳴瀬川と江合川いう川が流れ、それぞれ澄き通った浅瀬の中でフナや鮎が泳いでいるのが道を歩いていてもよく見えた。それらの川のズ-ッと上流には鳴子ダム

があって中学生の頃雪が積もる中でダムの修理のアルバイトをしたことがある。1日働いて100円位じゃなかったかと思う。約1ヶ月働いて腕時計を買った覚えがある。

この鳴子は温泉の湯治場としても有名で泣きコケシが特産でもある。鳴子峡という渓谷があってその崖沿いに散歩用の歩道があり夏などは涼を取りに来る人が多く、秋は秋で山あいから渓谷全体が紅や黄色の紅葉に覆われて素晴らしい景観を見せる。

 

僕の生家の庭にもリンゴや梅の木が植えてあって代々自家製の梅酒を造っていた。家の台所の片隅に大人がすっぽり入る位の大きな素焼きのカメが数個程並べてあり、その中に焼酎と青梅の実、角砂糖が口近くまで入れられていて1ヶ月もすると堪らなく香ばしい匂いがして来、よくコタツに入って試験勉強をしていてもモジモジしてきてついつい台所に入りカメの蓋を開け柄杓で梅酒をすくってゴクゴクやったものである。それでいい気持ちになってテレビでその頃流行っていたローレン、ローレンのローハイド!なんていう西部劇を観ながら興奮しながらも眠りこんでしまったものだった…それが下地となったのかどうか今でも酒は大好きである。大酒飲みではないがイイ雰囲気の中で酒を飲むのが好きだ。僕にとってのイイ雰囲気というのはイイ場所・イイ時間のことで例えば自分の好きな風景は、1つは静かに海を見られるところ(日本にいる時にはよく大晦日の夜は1人で房総半島に行って夜明かしで飲んでいた)、2つめは山奥にある渓流の側(これもよく日本でテントを担いで釣りに行っていた)、サバンナでのテントキャンプ(特にマサイマラのキチュワテンボというロッジの庭から見る風景)、そして障子越しに雪のふり積もるのを感じながらコタツの中で飲む熱燗……そんな時イイ相手とイイ酒があれば極楽!

 

しかし酒なら何でもいいかというとそんなこともなく、その時々によってビールを飲みたい時やウイスキーを飲みたい時など雰囲気によって違う。イタリア料理店でスパゲッティ-を食べる時は矢張りワインが欲しくなる。それである時フイに高校生の頃に飲んだ梅酒の味が口の中に湧いてきて飲みたくて堪らなくなったことがあった。その時、まだ熟れる前のスモモを買ってきて角砂糖とウオッカを買い、みようみまねで梅酒を作ってみた。子供の頃の記憶では少なくても1ヶ月はそのままおいておかなければならないということを聞いたことがあるので、その1ヶ月間というものは家に帰ってもソワソワしてしょうがなかった…

…でとうとう1ヶ月目が来て蓋を開けて飲んでみた・・・!

…全然梅酒の味がしなかった……

…でその後酢を混ぜたりライムを入れてみたりちょっとジンを入れてみたりしたがどうもあの昔恋しい味が出てこなかった…それでとうとう軟弱者の私は“大和や”という日本食販売の店に行ってそこで日本からの梅酒(ゥメッシュ)を買って飲んだ。飲んだがしかし…ゥ~ン、ヤッパリあのお袋の作った味は例えようのないお袋の思いでだナ~…!

 

そして初日の出と共に飲む酒は美味しいというよりも多少なりとも厳かな気分になるもので、元旦に昇る朝日を見て手を合わせると何となく仏様の世界に入ったような気分になった。しかし手を合わせるということは“神様仏様自分はこれだけの信心があるのでこれからの1年間何とか無事に過ごさせて下さい”とか“いいことがあるように”とか“できれば幸運が欲しいんですが…”などと自分が得することだけ、都合の良いことだけをお願いしていたものである。

ある日ナイロビドウドウハウスの仲間とナイロビから車で約1時間の所にあるンゴングヒルに

登って初日の出を拝もうじゃないかということになった。その頃(20年以上前)はまだまだ安全でドロボウノドの字もなかった頃だ。ンゴングというのはマサイ語で遠くを見るという意味らしい。マサイの戦士達はこの頂上から何を見ていたのだろうか…。標高は約2100m、頂上に立つと左がナイロビのあるキクユランド、右がマサイの住むマサイランドと景色がハッキリと分かれている。キクユランドは緑が多く肥沃な土地で農耕民族が多く遠くにナイロビのビル群が霞んでいる。

マサイランドは乾燥したステップ地帯で人が住んでいるような気配も感じられない。道は悪いがここの頂上まで4駆車でなら上って行けないことはないが今回は初日の出を拝みに来たんだからイージーにも車で上ってハイ、パンパン、じゃいかにも太陽の神様に対しイージー過ぎて失礼なんじゃないかと歩いて上ることにした。しかし麓からだと時間が掛かり過ぎるので途中まで車で行き、後の半分を歩いて上ることになった。ナイロビは標高約1700m、ンゴングヒルの裾野は1800m、そこから車で約200m上り、歩くのは100mということになる。100mといってもそれは標高差であってダラダラ坂有り、急坂ありで道の長さは700~800mにはなる。

男女6人がランクルに乗りナイロビの家を出たのが03:30、ンゴングヒルの中腹に着いたのが04:30、そこから車を置いて歩き始めたが05:30には頂上に着くだろうし明るくなり始める空を見ながら厳かな気分に浸るのが楽しみだった。山を上るとき右足と左足を1秒間ずつ交互に休ませながらユックリと進んで行くやり方があるがこの程度の上りなら走っても上れるだろうと多寡を括っていた。何しろ田舎で育って足腰は丈夫だし(子供の頃は…)富士山に登った時も殆ど息切れなんてしなかった(19才の時だった…)。しかしこの時の自分は36才だったがそれでもまだ体力には自信があった。歩き始めてすぐ上り坂になりチョット行って少々なだらかになりそこから又上りになっている。…でこの2度目の上りに差しかかった時急に膝に力が入らなくなり足を前に出すのが鬱陶しくなってきた。“ナ~ニこんなものはスグ治るしまだまだ大丈夫だ!”と自分に言い聞かせることにした。

「アレ、エンドウさんどうしたの…?」

「ウン、イヤ何でもない、急いでもしょうがないからちょっと一服してから行くよ…」

「じゃ~我々は先に行くよ…」

「ア~イイよすぐ追いつくから先に行ってていいよ・・・」

立ち止まってタバコを一服・二服吸い、吸いながらちょっと上ってタバコの火を消して上り始めた。回りは真っ暗闇だが先を行く皆の懐中電灯の光がチラチラ動いている。自分も持って

いるので足元を照らしながら少しずつ歩いて行く。先を行く連中が段々遠くなって行く。

“なんであいつらあんな早く歩けるんだ、俺と大して歳も違わないのに…”

足に力が入らないのもそうだがノドが苦しくなり息をするのも苦しくなってきた。何やら心臓も苦しくなってきた。かと言って奴らに待ってくれとも恥かしくて言えないし…

又足を止めて休む。

「オ~イィ…エンドウサ~ンン、大丈夫~・・・」大分上から聞こえてくる

「オ~ォ、大丈夫だ!今行ってるから…」

それから15分くらいするともう完全に彼らの声が聞こえなくなった。

“何だ、あいつらはオレが1人で歩いてるってゆうのに冷たい奴ラダ!”

と一人よがりのことを呟く…それからも休み休み上って行ったがもう疲れてきてこのまま帰りたくなってきた。それから約30分もしたろうか上の方からキャ~キャ~言う声が聞こえてきた。

“オッもう追いついたか、奴ラも疲れたんだナ、ザマ~ミロこのヤロウ…”何がザマ~ミロなのかそれでも息苦しい中でホットした。しかし立ち止まってよく上を見ると彼らは疲れたどころか動きが止まっていてもう頂上に着いているような感じだった!

「エンドウさん、早く来て…もう空が明るくなり始めてるヨ~…」

“ヤカマシイ!ホットケこのやろう!”ますます息苦しい中で呟く…

それでもやっと皆のいる頂上に着いた時にはもうハーハーゼーゼー膝はガクガク、息をするにも酸素が足りない感じで肺の奥からニコチンの焼ける臭いとヤニが焦げる臭いがし、生臭い唾がダラダラ出てきて思わず座り込んで手を突いてゲーゲー吐いてしまった。ゲーゲー吐いても固形物はなく苦い胃液が出るだけでノドが狭くなった感じで吸う息も少なく頭も痛くなるわ胃袋は痙攣するわでヒドイ目にあった。

皆から心配そうに顔を覗かれたり背中を擦られたり“ウルサイ、 イイからお前らアッチ行け、”と言いたいが声の代わりにゼーゼーハーハーばかりで本当に恥かしかった!!!

それからしばらくして落ち着いてきたが若い連中に情けを掛けられたのが悔しくてこのくらいのことで息が苦しくなるのは体力ではなくタバコのせいなんじゃないかと太陽が地平線から出てくると同時にポケットからタバコとライターを出し頂上から投げ捨てた。

「アフリカの太陽の神様、これから私は一切タバコは吸いません、止めます!」と誓った。

それ以来本当に一度も吸っていない。それで体力が元に戻ったのかどうかそれ以来山に登っていないので判らない。