雨季と梅雨

ケニアは間もなく4,5月の雨期になる。日本では6月になると「梅雨に入る」という言い方をするが雨期と梅雨の違いは何なんだろうと又アホな疑問が出てきた。小学校か中学校で習ったかも知れないがもう忘れてしまっているし今日は日曜日なのでゆっくりと辞書を開いてみようと思った。全く自分でも何をヒマなことを…と思う。マッ日曜日だからイイか…買い物も終えたことだし…。毎日曜日の朝09:00になると妻と二人、ホーカーズという自宅から車で約10分のオープンマーケットに行くことになっている。普段は妻も忙しい仕事をしていて買い物に行く時間もないのでこのマーケットで1週間分の野菜や果物を買う。トマトはピカピカに光り、大根などは水気を含んでパンパンに張っている。野菜や果物など大きめのサイサルカゴ2ツに目一杯買い込んで日本円で2000円もしない!荷物持ちの僕の指は千切れそうになるが家内は涼しい顔で「アッ、あれもこれも…!」とくる。もういい加減にして欲しい。

新鮮で値段も安いので市内の野菜店のオヤジなどもここに仕入れに来る。農場から着いたばかりのトラックの荷台から野菜を下ろす風景は中々活気があって見ていても気持ちがイイ。又50k入りの玉ねぎやジャガイモの袋を間にして「先週より10%も高いじゃないか!」「昨日から全て値上りしたんだオレのせいじゃない!」「この前と同じ金額しか払わない!」「イヤなら買わなくてイイ!」などと交渉というより言い争いに近いやり取りをし、プリプリしながら麻袋をピックアップの荷台に積みこむインド人もいる。

 

さて、昼前の一時期、コーヒーを飲みながら辞書を開いてみることにした。

「三省堂 現代国語辞典」:雨期⇒1年のうち、特に雨が多く降る季節

           :梅雨⇒6月~7月にかけて降り続く雨。その季節

「岩波書店 広辞苑」  :雨期⇒1年の中で雨の多い季節。

           :梅雨⇒6月頃降り続く長雨。又その雨期。

「旺文社 和英辞典」  :雨期も梅雨も⇒the rainy seasonとある。

「研究社 英和辞典」  :the rainy season⇒雨期、(日本の)梅雨期とある。

雨期というのは特に南国地方で雨の降る季節を差し、梅雨というのは雨の降る特定の時期を差すということが判った。しからば雨期(雨季)というのは雨の降る季節を差すという事は判ったが日本では雨期と言わず何故梅雨というのか…?梅と雨の関係は…?

恐らく梅の収穫時期に関係があるんじゃないかと想像は出来るがイイ加減なことは書けないので今度は「梅」のことを調べてみることにした。

原産は中国長江流域で日本には8世紀半ばに持ち込まれたという。日本はその頃は奈良時代。中国は唐の時代でペルシャ、インド、朝鮮などから多くの人が集まって高い文化を持ち、日本からも阿倍仲麻呂などの遣唐使が送られた。そして吉備真備や鑑真が日本に戻って来た時に各種書物、日時計、楽器、武器などと共に沢山の植物類も持ちかえったものらしい。梅の木は種を植えてから実の収穫まで16年以上を要し、3月頃に花が咲き6月頃に収穫するということが判った。

その後に来る平安時代までは「花」というと梅の花のことを言いその後は「花」というと「桜」の花のことを言うようになったとある。すると昔から日本の雨は6月頃に降っていてそれが現代まで続いているということになる。何かこう奈良・平安時代に降っていた雨と同じ雨に濡れるのか…と思うともっともっと濡れていたい気持ちになってきた…(錯覚もイイトコだ)。

矢張り6月の雨は梅の実が実る時期に降るので梅雨というようになったようだ。

しかし昔の人は何と風流なんだろうと感激してしまう。梅雨だけではなく桜会、入道雲、紅葉、木枯らしなど他にももっとあるがその言葉だけで季節を感じさせる、そういった言葉を作った

古人の智嚢の広さと豊富さ、それとその奥にある遊び心…。言葉や労わりよりも感情と欲が先走ってしまっている近頃の歪んだ風潮に流される現代人(自分もそうだけど)に古人の清らかさを感じて欲しいなと思う。

 

ナイロビの雨季は夜ザーっと降って日中は晴れる場合が多い。その晴れ間を縫ってある日曜日、

友人から誘われてナイロビ市外のロイヤルというゴルフコースでプレーすることにした。

元々ここのコースは土が粘土質でフェアウエイに芝が少なく、雨が降るとグチャグチャになり、乾期になるとガチゴチになって地面がひび割れてしまう。マ、町に近いのでチョイの間練習する位なら何とか我慢する。手入れが良くないせいと言えばそうだがしかし来る度にいつもどこかで修理をしている。この日もそうだった。16ホール目のティーグランドに立つと100m程先のフェアウエーの真ん中で2人程何やら地面を掘っている。野球なら120m飛ばすとホームランだがゴルフの場合は軽く200mを越す。その飛ばす快感もゴルフをする魅力だが…。とにかく危ないのでキャディーを前に行かせてどいてもらう。ナイロビのゴルフ場にはよくサルがいるが打ったボールがたまたまドジなサルに当って引っくり返ってしまうケースもよくあるのでもし人間に当ると“事故”だったにしろ後が面倒なことになる。

ボールを打って歩いて行くとさっきの2人が又出てきて地面を掘り始めた。近ずいてみると穴の中に上半身を突っ込んで手で土をかい出している。

「何をやってんだ…?穴掘りならスコップでやればいいじゃないか、それに工事中の看板も出していないようだが…」

「クイーンを探しているんだ!」

「エッ、何て言った…?クイーン…?クイーンって何のことだ…?」

「クイーンだよ、へッへッへ!」黄色い歯をむき出して笑った…

「だからクイーンって何のクイーンだ?」

「クンビクンビのクイーンだよ!」

「エッ、クンビクンビ…?!」

クンビクンビというのは体長が1.5~2cm位の羽蟻のことで雨が降る時期になると何万何千という数が地面から飛び出して空中を飛び回る。それに合わせて鳥なども忙しく飛び回る。アフリカ人の中にはこの羽アリをそのまま食べる人もいるが大概はフライパンで炒めて食べる。僕も試してみたがちょっと塩を振って食べると干しエビと似たような味だった。以前アンボセリ国立公園のキャンプ場にいる時にサバンナモンキーが争って空中に飛びあがり飛んでいる羽アリを手で捕まえて食べていた。そしてその中の1匹が羽アリの飛び出してくる地面をジット見つめていたかと思うと、その穴に自分の口を持って行き楽々と食べていた。時々口から羽を指で抜き取ったりしていてサルの中にも賢い奴がいるもんだと感心したものだった。

さてこのゴルフ場の黄色い歯の2人だが、穴の中にいる女王蟻を探しているとのことだった。我々が行きかけると丁度見つけたらしく体長が10cm位の丸々と太ったイモムシのようなのを手に持って見せてくれた。

これをフライパンで転がしながら炒ると熱で身体の外側の棘棘が取れ、さらに塩を振りかけながら20分程炒めると中身も柔らかく固まりホクホクと油が乗って甘くて美味しいということだった。その内チャンスがあったら試してみたいとは思っているがまだその幸運には恵まれていない。

椰子の木陰で

ナイロビ市郊外のウエストランド地区に「大波」という新しい日本食レストランがオープンした。

初めてその店に入った時、正直なところ…“エッ、ナニ、これが日本料理店?!”…。

オーナーはイスラエル人、マネージャーもイスラエル人。いかにも今風アメリカ的雰囲気で馴染んで来るとロスにいるんじゃないかと思ってしまう。黒を基調とした色彩だがバランス感覚もよく清潔感がある。プロのデザイナーの粋を感じる。

日本食というのはカツ丼、ザルソバ、オデン、しゃぶしゃぶなど多種多様に亘るが何と言っても寿司、刺身が日本のオリジナルであろう。食堂風とか飯屋風とかもあるが刺身のような生物をお客様に食べて頂く日本料理店というのは清潔でそして明るくなければいけない。通に言わせると日本食は“箸をつける前に目で食べる”という。まず部屋に通されてその落ち着きに心が安らんで、運んでくる器に品格を感じ、何気ない皿に盛られたその1品に潜むたおやかな心を感じ、そして後おもむろに箸で持ち上げ、

心の中で“これから頂くよ!”“ハイ、貴方なら喜んで…!”

別に色っぽい話しをする訳じゃないが本物の板さん(コックではない)が真心と根性を込めて作ってくれた1品にこのような思いを抱くのは私1人ではないと思う。

というようにまず目で満足し、口に入れて納得し、腹に入れて安心する、これが本当の日本料理だと思う。

ローアカベテにある「禅」というレストランも広いインド人好みの庭を前にして家族連れが多い。

一度様子をみにいったがマネージャーやらウエイターやらが入り口でペチャクチャやっていて見苦しく教育がなっていないのでそれ以来行っていない…

「大波」はナイロビでは11店目になる。日本人として日本食店が増えるのは嬉しい気はするがしかしどこの店をのぞいても“日本の味を味わって頂きます”という控えめに輝く個性というのがなくその店のオーナーの国民性と浅はかな日本の味らしいのを出しているところが多い。

日本食に飽きた場合にお勧めできるのは中華料理かイタリアになる。料理、いわゆる食べ物に関しては個人の好みがあるので一概にここがイイということは出来ないが今まで食べたイタリアレストランの中でずば抜けているのはマラウイ国リロングエ市内の店で出すカネロニである。

次がルワンダ国キガリ市内の丘の上にある店でここのフィッシカーバッチョ、それとトマトとバジリコを乗せたスパッゲティーは絶品である。ことにここは高台にあるので遠く広がる樹海を見ながら飲むよく冷えたアンテノーリの味わいは又格別のものがある。

皆様がもし出張などで行かれるチャンスがあったらお試し下さい、必ずや満足頂けるハズです!

残念ながらナイロビでこれだけのものを出す店にはお目にかかったことがない。

 

私は子供の頃にヒモジイ生活を送ったせいか食べ物に執着があるような気がする。悪く言えばガツガツしてる、良く言えば健啖家(この言葉もイイ誉め言葉とは思えないが…)。その上一時期マサイの部落で寝起きし、彼らの生活を目の当たりにしていた時、マサイの戦士は普段はそれ程多くは食べないがイザという時に食べる量は我々が凄いナ~と感心するのとは桁が違い5人から6人前を平気でペロッと平らげてしまう。それに比べたら僕の食べる量なんてのはタカが知れているが食べられる時に食べておくのがいいというマサイの習慣が身についているのかも知れない。

自分の好みから言うと同じ食べるにしても矢張り魚、それも潮の香りのするのがイイ。

ナイロビから南へ500km行くとモンバサという海岸都市がある。ケニアでは2番目に大きい町で白い砂浜の続く海岸沿いにはリゾートホテルがズラ~ッと建ち並んでいる。その中でも私のお気に入りはTIWI BEACHのサンドアイランドビーチコテージと呼ばれるセルフサービスのコテージである。高いホテルで決まりきった時間に決まりきった食事をするよりも自分で好きなものを好きな時に好きに料理して食べられるのが自由で良い。それにセルフサービスのコテージは安い!ここのビーチは岸から300m程行くとリーフがあり、引き潮になると殆ど水がなくなるので歩いて行ける。リーフから飛びこむと深さは5m位あって赤や青の熱帯の魚が泳いでいる。自分も魚になったつもりで近ずいて行くと殆ど逃げていってしまう。当たり前だがしかし海洋公園に指定された海ではよくパンを持って入ると魚が寄ってきて手から食べて行ったりする。観光客慣れしていない初心な魚達は全く自然のままなので嬉しくなる。自分だけの海のパラダイスとして誰にも言わず大事に取っておきたい。

このティウイビーチにも数軒のコテージがあるが私がこのサンドアイランドビーチコテージを好む理由は引き潮になるとこのコテージの目の前、岸からすぐの所に砂山が現われる…。

この砂山は縦横100mくらいのものだが周りには誰も居ず、寝そべっていると潮風が身体の上を通り過ぎていき、心が破滅的な悦楽の世界に引き込まれていってしまう。

満潮に近くなると手漕ぎのカヌーを操って漁師が沖から戻って来、獲ってきたばかりのカゴに入った魚を間に早速値切り交渉をする。体長30cmのシマ鯵を50円ダ、イヤ60円ダ…とやるのである。

このようにして手に入れた新鮮な魚は台所へ持って入ってはイケナイ。コテージの前の椰子の木の下で石を並べた上に網を乗せ、ココナツの殻を燃料にし、塩をタップリと振り掛け、ライムを搾り、砂浜に座り、午後のひと時を自分だけの贅沢に浸るのである。

労働許可証

どこの国の人であってもどんな職業の人であっても自分の国以外の国に住む場合又は仕事をする場合又は余生を過ごす人もいるだろうけれども、原則として労働許可又は滞在許可を申請し取得なければならない。10年一昔と言うが今から二昔以上前のケニアには1000人以上の日本人が住んでいた。近頃は約半分になってしまっている。理由は色々あるだろうが商社、ゼネコン、製造業など一時期はそれぞれ5~6名の駐在員がいて華やかだったが今はワンマンオフィスが多くなってしまっている。日本国内の不景気もあるだろうけれどケニアの需要と供給のアンバランスさとそれを上回る政治・経済界の複雑さ、諸外国からの物と習慣の激入流にまともな日本の常識がついていけなかったことにも一つの原因があると思うのだが…。最近では得に中国からの人・物の流入が激しく、指を咥えて傍観している間に2万人以上に増えてしまっているとのこと…。よくもそんな簡単に滞在許可が下りるもんだと何かの裏があるんだろうが不思議さを通り越して中国の官民一体の政策に感心すると共にある面で羨ましさも感じてもいる。

中国国内では人口の増加が問題になっていてドンドン世界に送り出そうとしているそうな…。

イヤもう大分前からそのつもりで策を考えてきていると思う。何しろ中国というのは歴史を得意とする国で何かの計画を立てるにも日本人は10年20年と先をみているが中国は100年200年いやもしかしたら1000年先を読んで手を打っているのかもしれない。

何しろ彼らの考えでは沖縄どころか日本全体は元々中国の属国で東南アジア全域も元々中国の領土と考えていて(イヤ、信じている)近い将来全てを中国の管理下におこう(イヤ、取り戻す)と考えている(イヤ、するつもりでもう既に計画の序章に入っている)から話にならないというか日本人が信じている話の基礎となる筋道というものが全てすれ違いになるのは当然のこととなる。

 

さて、ケニアに住む日本人の殆どは首都ナイロビに集中しており地方の都市で個人の裁量で裁縫や染物などを教えている人もいるが、それよりも電気も水道もない過疎地に現地の人と一緒に住み子供達に算数・数学など教えたり灌漑・農業・工業関係で日夜努力し頑張っている協力隊の人々には本当にご苦労様と言いたい。僕なんかにはとても真似はできない。  

ケニア在住邦人の中には日本人としての誇りを持ちながらケニア国籍を取得した人も数人いるしケニア人と結婚し居住権を得ている人もおり又私のように労働許可を取得して住んでいる人もいる。ケニア人と結婚し配偶者として居住する人も労働許可を申請する人も特別な場合を除き共に2年毎に更新しなければならない。この更新の手続きというのが又面倒で申請書類からパスポート、写真その他諸々の書類を一番初めに提出したと同じものを揃え全く前回と同じ手順を踏んで申請しなければならない。

我々のような旅行会社やホテル、レストランなどのサービス業はイミグレーションに行く前に観光省に行きイミグレーションへの推薦状をもらわなければならない。イミグレーションの煩雑さを少しでも緩和する意味もあるとのことだがまずここでも2年前と同じことを書いた書類を持参し又現在保有している車の台数や保険、社員の数や外国人スタッフの数なども届けなければならない。実際ここが第一関門でまず初めに大した理由もないのに延長はダメだ!と来る。

「ジャ~僕は日本へ帰るけどローカルの社員やその家族・親戚を数えたら200人以上の人が明日から食うウガリを買えなくなるがそれでもいいのか?」と脅すと

「誰かが後を継いでやるから大丈夫だ」と言う。

「冗談じゃないヨ、オレをケニアから追い出すんだから会社は全部クローズするに決まってるじゃないか!自慢じゃないがオレの会社は日本から年間3,000人以上の観光客を連れてきているし(勿論ハッタリだが)その会社を潰してあんたと同じケニアの人々から職を取り上げることになるんだぜ…!オレはそのことを新聞にも書いてもらうしラジオでも言ってもらう、勿論あんたの名前もださせてもらう!」

「ノーノーノー!そうは言っていない、代表者を今いるケニアの社員にさせればイイ…」

「あんたはそう言うが俺の会社は日本とのやり取りがメインだし、日本語の読み書きが出来なきゃメールでの通信も出来ないんだ…!」

「日本語の出来るスタッフがいるじゃないか、そいつにやらせればイイ…」

片言の日本語ができるからと言って日本人特有の相手の感情を慮る心情を理解できる訳はないがそれを説明するのも面倒だし又アホらしいので省略する。

「ヨシ!判った!それじゃ一緒に俺の会社に行ってスタッフ全員にオレを追い出して新しい代表者を誰にするか決を取ってもらおうじゃないか!確かに日本語を話すケニア人はいるが読んだり書いたりがどれだけできるか見せてやろう…!」

「イヤ、私はアシスタントパ-マネントセクレタリーの代理の仕事をしているんであって調査とかは自分の仕事じゃない」

「ジャ~調べもしないでオレを追い出すのか!」

「エンドウ、そうじゃないドウドウには日本人の数が多過ぎるし長く滞在している日本人もいる、例えば4年の間にケニア人に仕事のやりかたを教えれば出来るはずだ」

ここでも又日本語には漢字、平仮名、片仮名の3種類があってそれの読み書きを覚えるのに当の日本人でさえ20年勉強したからと言って満足にできる人は少ないんだと言いたいが言っても無駄なので余慶なエネルギーは使わないようにする。

「OK、判った、それじゃ今日はこれで帰るが今度一緒に食事でもしながら話しをしよう…ところであんたは日本食を食べたことはあるか?」

「イヤ~、チャイニーズレストランに行ったことはあるがジャパンはまだないナ~」

「ヨシ、それじゃ今度あんたと奥さんに日本食をご馳走しよう…」

「オーザッツナイス、ユーコールミーエニタイム!」

…でこうして一つの関門は突破するが次がイミグレーションだ…

移民局には1人1人のファイルが厳重(?)に保管されてあり、前に提出した書類がそのままあるので何度も更新している人など申請の手続きはもっと簡略化してもいいと思うのだが中々そうはいかない。その上それなりの書類を用意しそれで更新の申請が全てスムーズに行くかというと飛んでもないことで観光省同様もうこれ以上の滞在は認められない、と申請書類を突っ返される。その理由は色々あるが再びここでも代表的なものは“もう今までアンタがやってきたことはケニア人にも出来るからこれ以上の滞在は不要だ”というもの。そこでその都度我々がケニアに滞在し今までケニアの為、ケニア国民の為に何をしどれだけのことをしてきたか、又今後もケニアの為にコレコレのことをし又ケニア国民の為にコレコレするつもりであることを縷々延べ、その他にももっともらしい理由を文書に明記し再度提出する。

その翌日ワザとらしく電話をして

「昨日提出した書類に説明不足の部分があったので直接会ってお詫びと説明をしたい」というと

「それじゃ~明日10:00にオフィスまで来い」

「10:00は早いので11:00頃は如何か?」

「12:00には約束があるからその前に必ず来い」

「もし遅れると申し訳ないので12:30に昼食はどうか?」

「OKそれならいいだろう」

…とここまでくればもう大丈夫…半分は申請が通ったのと同じことだ…

このような申請は通常1ヶ月前から始めるがまともに申請すると6ヶ月以上パスポートを取り上げたまま返してくれないケースもあり、私のような仕事をやっていると突然ケニア以外の国へ飛んで行かなければならないこともあるのでそんな悠長に待つ訳には行かずあの手この手を考えてやっていかなければならない。郷に入れば郷に従えという諺通りにできればいいがこういったことにそんなに太くもない神経を使い、時間を無駄にし、使わなくてもいいお金を使い、上がらなくてもいい血が頭に上がってくるのを無理やり押えつけていかなければならない。

それを友人に言うと「そんなにイヤならケニアに住まなければいいじゃないか…」と言われる…

ところがナイロビは住んでしまうと離れられなくなってしまう不思議な街で例えば日本へ行く途中、経由地のドバイで関空行きフライトの搭乗手続きの列に並んだ時、ふいにブーゲンビリアの紫や塀一杯に咲いているゴールデンシャワーの黄色を思い出し“あ~もうナイロビに戻りたい”とせつなく思うことがある。これなんかまるで恋心である…

ナイロビで生活する上において魅力のある点を挙げるとまず第1番に気候の涼しさ、ケニヤの1年は日本でいう春夏秋冬ではなく乾季と雨季の二つに大別(寒季、暖季、大雨季、小雨季に小別される)されるが年間を通じ例え雨季であってもジメジメした感じはなくサラッとした空気が流れている。2番に空の青さと太陽の明るさ、3番にジャカランダやブーゲンビリアなど色とりどりの花が街を彩り全体的な雰囲気が明るく感じられる。4番は動物天国でもあるが鳥のパラダイスでもあること。小型の鳥で注射針のように嘴が細く長い太陽鳥は青い羽を光らせながら花の蜜を吸っているし、鳥好きな人は信じられないと思うけれどあの銀顔サイチョウがカップルで庭の樹の枝に止まってお互いあのデカイ嘴でカツンカツンやっている。本当、鳥というのは夫婦仲が良い、どうしたら仲がよくなれるのか教えて欲しいくらいだ…。5番目には贅沢を言わなければ食べるものにも困らない、服装も普段着で構わない、郊外で車を運転している時に思わず気持ち良い位にアクセルを踏んでストレスを発散させることもできる、周りに気を使う必要がない、殆どのケニヤ人は明るくて屈託がないなどの気楽さがある。嘘吐きや泥棒もたまにはいるがケニア人はすぐにばれるウソを言いその後はケラケラ笑って済ましてしまうので憎めないところがある…その上ケニアには山、海、湖、河、サバンナ、森林、砂漠があってどんなスポーツも出来ないことはないし国立公園・保護区など観光で動物を見られる所が40ヶ所もある。公園以外の場所でも普通に人々が暮している町や村でキリンやシマウマ、インパラ、ガゼルなど自然の動物がまるで放し飼いしているかのようにみられる。もう何番目になったかは判らなくなったがとにかく暮らしていく分には他の国にはない快適さがある。

ナイロビ空港から市内に向かう途中、道路の左側にナイロビ国立公園があるがキリンがゆっくりと首を前後にリズムをとりながら歩いているのが見える。その上観光コースに入っていない秘境が随所にあって冒険というか探検というか○秘好きの私なんかはいても立っても入られない気分になってしまう。そんな時には役所などでのあのイヤな思いが消えていってしまう。

サファリ

今から約40年以上も前、僕が20才前後の頃ターザン、アフリカ、ジャングル、毒蛇、猛獣などという言葉を聞くと理由もなく胸がドキドキし、そういった名前の出ている映画やテレビは必ず見るようにしていた。「ターザン」という映画には象、ライオン、キリンなどが出てきたが実際にはアフリカではなく殆どが南アメリカがロケ地だったらしい。それでも映画の中ではアフリカの場面や動物が毎回でてきており、まだ疑うということを知らなかったその頃は全てアフリカでのストーリーだと信じ込んでいた。かといってダマされたとかどうのこうのではなく映画というものは観て楽しむものなのでその撮影の場所がどうあろうとそれはそれでいいじゃないかと思っている。宇宙戦争とか幽霊とか怪獣とかは全く空想の世界の物語なので場所がどうのこうのと言っていたら映画なんて作れなくなってしまう。最近は宇宙開発も進んでいるが4次元とか5次元の世界が全くないかというと100%完全に無い、とも言いきれないことが起きていることも事実…

人間には視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚の5感があると信じられている。これが動物になるとこの5感以外に第6感というものが存在するらしい。時折人間にも動物と同じこの第6感が感じられるという人がいる。特に親しい人の生死に係わることで突然何かを感じたり夢見がどうのこうのと言ったり「アッ、誰々さんがもう直ぐ家に来るようだ」とか思うと本当にその当人が来たりすることがある。これなんかは「第6感で感じた!と人は言う…

これと似たようなことが動物の世界では毎日起きているというか感じているのではないかと思われる。渋谷駅前の忠犬ハチ公が生きていた頃はその類だし我が家で同居している白い太めのオスネコも私が帰る時間になると玄関に座って待っている…ましてや自然の中で生きている野生の動物達は自分からソウダ!ソウダ!なんて言わないが彼らの生活の中では毎日そういったことが起きそれが特別だとは思わず目で見えるのと同じように当たり前のこととして感じているのではないかと思う。象のファミリーはグループとして統制のとれた動き方をするし又ライオンがシマウマなどをハンティングする際2手や3手に別れ、獲物をかく乱させ、追い詰めて行って待ち伏せしている別働隊が仕留めるたりする。これなんかは事前にミーティングで分担を決めた訳じゃないだろうしお互い以心伝心で動いたとしか言いようがない。人間が会話と称している

所謂お互いの意志疎通の手段として用いる言葉は動物同士にもあるだろうしイルカ同士にも言葉があると今では信じられている。蜜蜂は自分の動きで情報を伝えているし蟻は触覚の動きと

お互いの臭いで情報交換をしていると言われている。

蟻といえばこんなことがあった…

以前使っていたアーミー払い下げのテントは床がなく、ただ単に2本のポールを地面に立てその上に1本横にポールを乗せ、その上からテントをかぶせて両側から引っ張っただけの非常に簡単なものだった。ある日日本から大自然の動物を撮りにきた撮影隊15名が約2ヶ月間マサイマラでテントを張ってキャンプをすることにした。長期間なのでロッジに泊まるより安上がりだしゲームワーデンと交渉して普通のキャンプサイトではなく動物がよく水を飲みにくるマラ河からほど近い林の中にキャンプすることになった。その時にワーデンから「但し何が起こっても自分達で全て責任を取るし公園側には一切何の補償義務はない」という書類にサインをさせられた。

さて、2人一組でテントに寝ることになりこれもアーミー払い下げの折畳式ベッドを入れて寝袋を敷いた。この撮影隊のリーダーは梶浦さんと言いプロデューサー兼監督でフランス料理が大得意な人で今まで何度も一緒に仕事をしたことがあるがいつも食事を作ってくれていた。最初の夜だというので梶浦さん得意のフランス風ロースのステーキだった。流石に旨かった!マサイマラ動物保護区内でもこの林の中は動物が集まってくる場所なのでハリケーンランプを各テントに1ケずつぶら下げ、キャンプファイヤーも大きく焚き皆でそれを囲んでウイスキーを飲みながら明日からの撮影の段取りの再確認と動物に出会った時の細かな注意を与えたりした。

明日は早いからさ~寝ようかと言う頃になって遠くでライオンやハイエナの鳴き声がし始め

シマウマやバッファローが人間の側なら安全だろうとでも思ったのか我々のキャンプ場のすぐ近くに集まってきた。草食動物といってもあくまでも野生なのであまり近くまで来られると焚き火に照らされたその存在感がグググッとせまってくる…

さてテントに入り寝袋にもぐりこんでグッスリと熟睡した夜中の2:00頃(時間はあとで判った)全く突然に頭の先から足のつま先まで全身に注射針で突き刺されるような傷みを感じた!隣のベッドに寝ていたADの石黒さんも同時にギャ-と言いながら飛び起きた。

ウワ~!ギャ~!タスケテ~!と二人共焦って寝袋のジッパーを開けようとしてもがく内ベッドから転げ落ちてしまった、しかしそんなこともお構いなく二人でぶつかり合いながらやっと寝袋から出てテントの外に飛び出した。その間も身体中をペンチで捻られるような傷みが走っていた。まだチョロチョロと火が燃えている焚き火の側に来て二人で片足ずつピョンピョン飛びながらシャツとズボンを脱いでいった。すると身体中にまるでゴマを振りかけたような黒いものがビッシリとコビりついていた。

「ワ~!何だコリャ~!蟻ジャネーカヨ~!」

「エンサン、どうすりゃいいんだよ~痛いよ~」

と言われたってコッチ だって痛くて石黒さんに構ってるヒマなんかアリャ~しない…

「石黒さんコスリ落としたらダメだよ、そんなことしたら頭が千切れて牙だけ残って下手すると皮膚の中に入りこんじゃうよ…」

「エー!じゃ~どうすりゃいいの…!」

「我慢して一匹ずつ取っていかないとダメだよ…!ちゃんと頭を持って取らないとダメだよ!」

「そんな、そんな痛いよ取れないよ、嫌だよ痛くて我慢できないよ~…!ア~助けて~…!」

…二人共地団太踏む要領で片足ずつ焚き火の回りをグルグル回りながら1匹ずつ取っていくしかなかった…しかしその間の痛いこと痛いこと!!!

二人でギャ-ギャ-騒ぐものだから梶浦さんが起き出してきて

「何やってんだ二人共!」

「アッ、梶浦さん助けて、蟻にやられた…」

「何!蟻?…ア~~ホントだ!コリャ大変ダ、コリャ痛いわな…!」

…で流石に他のスタッフも起き出してきたので皆なの手を借りて身体に食いついた蟻共を取ってもらった…髪の毛の中に入った奴やパンツの中に入りこんだ奴は相当大変だったが何とか取り終えて一息ついた時には1時間以上過ぎていた。取ったことは取ったが食いつかれて取り外した後はキッチリと2つの牙の跡が残り、全身がまるで刺青をしたような斑状になって見えた。

梶浦さんが一応消毒しておこうと言って二人の身体中にウイスキーをぶっ掛けて回った。

それが染みるなんてのは蟻に噛まれる痛さに比べたら何てことなかった…。かえって気持ち良い位だった…しかしあのジョニ黒もったいなかったナ~

でその後二人で恐る恐るテントの中を覗いたら蟻の姿は1匹も見えなかった…

どうやらサファリ蟻の通る道筋にテントを立ててしまったらしい。他の人達は何事もなく無事だった…しかしもう~あんな思いは二度と嫌だ!

ポストオフィス

先日“ふれあい祭り”のことを紹介したけれど実は本当のことを言うと今年の“ふれあい祭“

では今まで誰もやったことのない『たこ焼き』の店を出すつもりだった。その為に妻が5月に日本へ行った際、業務用のたこ焼き用銅版を買い求め船便で送ってもらった。普通なら1~2ヶ月、遅くとも3ヶ月後には“届くハズ”だったのが9月半ばになっても着いたという連絡がない。本番は9月27日なので大分焦った。きっといつものレイジーさでどっかに起き忘れられているんじゃないかと郵便局へ行った。

荷物の受取り専用の郵便局は市内で最も交通マヒの起こりやすい、元エチオピア大統領の名前のついたハイレセラッシアベニュー沿いにある。ここの駐車場は狭くてせいぜい20台位が駐車

出来るだけのスペースしかない。ナイロビ全体の荷物受取をまかなう(勿論荷物の発送や手紙類の受け渡しもしている)にはいかにも不都合なことこの上ない。だからここに来る時にはドライバーに運転させてこなければならない。土地はイヤッという程広いのだから何故市外に引っ越して広い駐車場を用意し市民の為に考えてあげないのか、交通マヒも心配しないで来られるようにしてあげないのか…などといつもここに来る度に思う。

何故?どうして?という疑問符はアフリカではゴルフでいうタラ、レバと同じような意味を持つがこれは説明すると長くなるので別の機会に…

さて郵便局の荷物受取り専用フロア-に行くと一辺20m位のくの字になったカウンターがある。

国際便や国内便、普通小包みや書留便など担当別に分かれた受け付けらしいところに行くと

7~8人がバラバラに座っていてそこの国際便担当者らしい人のところへ行く。

隣に座っている同僚とは1mと離れていないのに ゲラゲラ大口を開け何がおかしいのか不必要な位大きな声で喋っている。こういった場所では来る人(お客)の迷惑にならないように小声で話すか、先ずはプライベートの話を止めてお客様の方に向き直って笑顔で接するものだ、と僕らなんかは教えられてきたが、ここの人達は我々が来ているのを知っていながら無視した感じでまだまだ喚いて(そうとしか思えない)いる。カウンターを挟んで立ったままどれだけ長く無視されるか自虐的な気持ちになって待ってみた。20秒ほど待っても全くこちらを向かないので流石に頭に来てそれでもこちらは礼儀正しく「エクスキューズミー!」と言う。1回だけじゃ振り向かないので今度は少し大きい声で「エクスキューズミー!」と言った。大口を開けたままチラッと目だけこっちを向いて又横を向いてしまった。“なんだこのヤロウ!”とカウンターをドン!と叩こうとした瞬間こげ茶色に染まった歯をむき出したままモッサリとこっちを向いた。

「ハロ~チャイニーズ、ホワットデュ-ユーゥオント?」

そんな言い方はないだろう!と思いながら在ケニア32年のこのオレだ!こんなことでイライラしていちゃ~物事は進んでいかないのは判り過ぎる程判っている。

日本から5月に送った荷物を引き取りに来いという連絡をもらっていないがもしかしたら今日着いているかもしれないから調べて欲しいという。ここで大事なのは荷物が着いたという連絡がないが一体どうなってるんだ、などといかにもお前サンが連絡を忘れているんじゃないか、とか何故まだなんだ、とか相手を責めるような言い方をしてはいけないことである。日本なら直ぐにパッと調べてくれるがここではそうはいかない。自分を律する訓練を受けていないのでちょっとでも気分を害する言い方をされると直ぐにプッとふくれて席を立ってどっかへ行ってしまう。

そこであくまでも下出に出てさっきと同じことを再度言う

「貴方も忙しいだろうけど5月に日本から送った大事な荷物のことで確認して欲しいことがある」というと突然左を向いてカウンターの端に座っていたオバサンに

「オイ、マギー このチャイニーズの荷物ダ!…、オイ、チャイニーズ マギーと話せ!」

途端私はこのゲラゲラ野郎を完全に無視し何も言わずにそこを離れてマギーオバサンのところへ行った。このマギーオバサンにも5月に送った荷物のことを説明しもうここのポストオフィスに来ているハズだから調べて欲しい旨言うと、イキナリ何も言わずに中に入れ、と言う…

事前の細かい説明などしない、したがらない、出来ない、のが普通だから言われるままカウンターの一番右端にある小さなハネ戸を押して中に入った。するとマギーオバサンはクルッと後ろを向いて歩き始めた。後をついて行けば何とかなるだろう、と私も黙ってついて行った。

木で作った4段位の棚にダンボール箱を目一杯押し込め天井までいかにも危なっかしく積み上げた中をおそるおそる通っていくと、いかにも荷物に埋もれたという形容の狭くて薄暗い部屋があった。その中に又別のオバサンとオジサンが座っていてオバサンの方が上司らしくすぐ横の木のイスを指差して座れと言って

「ホワットキャンナイドーフォーユー?」と言う。

3度目の説明を始めた。

しかし今度のオバサンはキチンとしていて私の説明を聞き終わってから6月から今までの荷物の送り状の束を1枚1枚捲りながらチェックしてくれた。ジッ!と側で見ていて“こんなことはコンピューター処理すれば簡単に済むのに”と思いはしたが丹念に手作業を続けてくれているオバサンに何も言えず伝票をめくるオバサンの手元を見続けていた。

20分位も経った頃にやっとオバサンが顔を上げて

「ソーリーまだ着いていないようだ!」と言う

「ジャ~悪いけど今日着いた荷物の伝票をチェックしてくれないか」とお願いする。

オバサンは何も言わずに部屋を出ていったがすぐに戻ってきて

「今日の分もチェックしたけどまだ来ていない」と言う。

「それじゃ~この沢山積んであるカートンの中に混じっているかも知れないから見ていいか?」

と聞くと

「これらは全て引き取り手がなくて3ヶ月だけ保管してあるものだけだし貴方の名前の荷物が届いた記憶はない、私は全部覚えている!」といわれた。あまりにも自信タップリに言われるし、親切にチェックしてくれた優しさに反論も出来ず、それじゃもし僕の名前のカートンが来たら

すぐに教えて欲しい、お礼はするから・・と言って携帯番号の入った名刺を渡し、僕の為に嫌味も言わず時間を割いてくれたことに感謝しているしるしにしっかりと握手をして狭いオフィスを出てきた。

もうコリャ~着くハズはないナ~…銅版だからもしかしたらどっか途中で抜き取られてしまっているかもしれないし…もし届いたとしても間に合う訳ないナ~…別の出し物を考えよう…と誰にも向けることのできない腹の中の悔しくて熱い固まりを抑えながら拳を握り奥歯を噛み締めながらポストオフィスを後にした。

しかしあのダンボールの山に囲まれた自信タップリのオバサンの親切心は有り難かったナ~…と不思議にゲラゲラヤロウのことは薄れてしまい、心の中が温かくなっていた…

 

そして9月26日、明日の“ふれあい祭り”の準備をしなくてはと腕まくりをしている時に

ポストオフィスから荷物が届いたという黄色い紙が届いた!!!!

まるで小説の中ような嬉しい黄色の紙だった。家に帰って“もう半分は諦めた方がイイよ”と慰めてくれた妻に黄色い紙を見せたら口をあんぐり開けて「エ~!ヱ~!一体どうなってんの~!!!?」だった…

来年の“ふれあい祭り“は皆さんに『たこやき』を食べてもらいます!!!

強盗騒ぎ

ナイロビ郊外にちょっとした庭のある家を借りて数年経ったある金曜日の夕方、前日から明日の夕方はバーベキューにしようと言っていたのでそれ用の肉や炭を買い早めに家に帰った。時間があったので庭で皆で1時間程バドミントンで汗を流し頭も身体もリフレッシュしその夜は多いに盛り上がった。バドミントンと言っても羽根突きのようなポーンポーンというのではなく、

ビシッ!ビシッ!と鋭く決めていく激しい動きをするあれなので結構息切れもする。

翌土曜日の朝、二日酔いの頭を水道の蛇口の下に突っ込んでしばらくそのままにしていると何とか目が覚めてきた。その後、サ~ッ仕事に行くか~と心も身体も頭の中も爽快な気分で玄関を出ようとした時、ゲートで騒がしくクラクションを鳴らす車がいた。“誰だいこんな朝っぱらから…”と煩いとは思ったが別に不安には思わなかった。

シャンバボーイ(庭師兼ハウスボーイ兼門番)のピーターを呼んで誰だか見に行くようにいった。がピーターは何も言わずにゲートを開けたので誰か知ってる人でも来たのかな?と思った。エンジンを勢いよく噴かせて走りこんできたワンボックスカーの横にPOLICEと書いたステッカーを貼っていた。車のドア-を開けて5~6人の私服を着た警察官(と思った)が機関銃を構えながらドドドッと降りてきて家に中に入ってきて

「インベスティゲーション!」と何やら興奮して怒鳴り散らし始めた。

「ララチニ!ララチニ!(スワヒリ語で床に伏せろという意味)」

と言いながら白目が真っ赤に充血した目を向け機関銃の先で胸をこずいてきた。

こずかれながら(こちとらだって大和魂だい!黙って言われた通りに言うことをきけるかい!)「ナ、何の用だ!」

と精一杯震える声で威厳を保とうとしたが

「インベスティゲーションだ、黙って床に伏せていろ!」と3年以上歯を磨いていないんじゃないかと思われるようなひどい臭いと夕べ飲んだと思われる安い地酒の醗酵した臭いがモロに吹きつけてきたので思わず顔を背けながら(こりゃ~逆らったら何をされるか判らんナ)と言われた通りにした。3人位(だと思ったが)が応接間からベッドルームに入っていってまだ夢の世界を漂っていただろう皆なをたたき起こし無理やり応接間に連れてきた。皆な寝ぼけ眼なこのまま(一体何が起きたんだろう)とちらちらと不安な目付きで床に伏せている僕を見た。ただこの後に及んでもまだポケ-ッとした顔つきで、目がウロウロと不安が一杯の福島から来た川渡のとっつあんが、

「エ、エンさんど~したの?」と言った途端

「フンガムドモ、ララチニ!(何も喋るな、伏せろ!)」と背中をどやされ機関銃の先で床を差して背中を押され僕同様床に伏せさせられた。

「顔を上げるな!そのまま伏せていれば何もしない!」

と言われハッと気がついて恐る恐る手を上げ

「エ-ッ、済みませんが皆に通訳していいいですか…?全員英語もスワヒリ語も判らないので…」

「ァ~ヤ、サワサワ…(いいだろうしてやれ…)」

…で皆に

「何も抵抗さえしなければ危害を加えないから皆そのままジットして…何か知らないけど家の中を調べるそうだけど…」…と全員ハッと身体が固くなるのが判った…   

「…、…、…、」

・………

…で1人だけが見張りとして残りの連中は奥の僕の部屋へ入ってガタガタやっている様子だった。(アッ、ヤバイな~昨日日本から送ってもらったばっかりの明日支払う予定の200万円を見られたら困っちゃうナ~…)とうつ伏せになりながら気が気じゃなかった。もしかしたらこの金も盗られ自分だけじゃなく皆の金も見つけられトンデモナイ言い掛りをつけられるんじゃないかと覚悟した。

ところが5分程(だったと思う)し、我々がいる応接間に戻ってきて皆の腕から腕時計を外したり、ポケットを探ったり、現金を盗ったり、ラジカセを持って行こうとしたりしているので

「アッ!何だこいつらは泥棒じゃないか!」

と始めて気が付いた!

「頭を上げるな!」

と足で頭を蹴られ

「何だこの野郎、人の頭を土足で蹴っ飛ばすとは泥棒のくせに許せない奴だ!」

とは思っても何しろ相手は機関銃を持っているので文句も言えずただひたすら撃たれないように…“神様~!”…と祈るしかなかった…

「いいか、しばらくそのままにしてろ、動くんじゃないぞ!」

と言いながらドヤドヤドヤッと出ていった…

まだ誰か残って様子を見てるんじゃないか、又頭を蹴っ飛ばされるんじゃないか、としばらくそのままにしていたが車がブワー!ッと精一杯エンジンを吹かして走り去っていったのてやっと起き上がった。

「オイ、皆な大丈夫か何か盗られたかチェックしてみよう!

と自分の部屋の現金200万円が心配なくせに見に行くのが恐い気持ちと一家の責任者として動揺する心を皆に悟られたくなくて何気ない振りをして皆の心配をする振りをしていた。

…で結局全員のルックサックを開けられドルの現金とケニヤシリングの現金は全部盗られていたがトラベラーズチェックだけは残されていた。闇替えでも率が悪いし下手すると足がつくので敬遠したのだと思う。

「こっちはトラベラーズチェックはOKだったからよかったけど、エンさんの部屋はどうなの?」

「ウ、ウン今チェックしてみる…」

果たしてどうなったのか、もう盗られてしまってるだろうな~…明日の空港でのカメラ機材の税金の支払いはどうしよう~…と心臓がドキドキし顔からサ-ッと血が引いてるのが感じられた。

それでも何とか部屋に入っていった…

戸棚はひっくり返され、引き出しも投げ出され、ベッドの上に書類関係が散らばり、洋服タンスの中にあったシャツ類なども全部引き千切られたように床に捨てられてあった。

ひっくり返された戸棚の裏蓋が捲られて中に仕舞ってあった書類なども滅茶滅茶になっていた。

「ァ~ァ、もう金も盗られてどうしよう…」

諦めきった心境と震える手で山盛りになった書類を持ち上げていたら

「ア~!あった~!!!」書類の一番下に輪ゴムで止めた札束6つがそのままあるではないか!!!信じられないのと嬉しいのと“あ~助かった~…”と一挙に胸の奥が暖かくなってきた。

お金は棚の一番前に置き、戸を閉めて鍵を掛けていたので強盗共は鍵を開けるよりひっくり返して裏の柔らかいベニヤを破った方が手っ取り早いと思ったんだろうが戸棚を引っくり返したお蔭で現金は戸棚の奥においておいた書類の一番下になってしまい慌てていた強盗連中は書類だけだと勘違いして書類の下まで探さずに諦めてしまったものと思う。

イヤ~…ヨカッタヨカッタ…200万円が無事で何か宝くじに当ったような気分だった…

 

その後すぐ近くのポリスステーションへ行き事情を説明したら

「そいつらはまだ居るのか?」と聞く

「もういないよ行っちゃったよ、だからこうしてここに来られたんじゃないか」

「じゃ今一緒に行くからちょっと待て」

それから15分後、さっきの受けつけにいたオフィサーとは違う私服のポリス2人が

「トエンデ(行こう)」と言う

家に戻ってさっき起きたことを説明し友達の金がT/C以外はみな盗られたことを言う。

「お前は何を盗られた」と聞くので

「ラジカセ2台と小型ラジオ1台とケニヤシリング一万シリング」と言う

200万円分のお金は無事だったしポリスといえどそんな大金を見せたら何を言われるか判らないので何も言わないことにした。

ピーターも呼ばれ何故ゲートを開けたのか、顔に見覚えあるか、車のナンバーを覚えているかなど聞いていたようだった。

それに対してピーターは車の横にPOLICEのステッカーを貼っていたしインベスティゲーションだと言われたから開けたし顔も見たこともなくナンバーも覚えていないということを言っていた。

大体の事情を聴取してポリスはもう帰るというので、一体これからどうなるんだ、盗られた物は取り返せるのかと聞いたらもう現金は無理だし、ラジカセもダウンタウンに行けば売っているかるかも知れないと言う…じゃその強盗を見つけて弁償してもらいたいと言ったら

「彼らはもうどこかへ逃げて隠れてしまったからもう無理だよアッハッハ…」

「だってそれを見つけるのがあんたたち警察の仕事じゃないか!」

「ァ~ヤもしみつかったら知らせるよ…」

やる気のないのが見え見え…もうこれじゃやられ損だ…

 

今まで旅行者がスリに遭ったとか引ったくりにやられたとかは身近にも聞いていたけど自分が強盗に襲われるなんていうのは全く考えもしなかった。しかしどうして昨日銀行から下したばっかりの金がある時に来たんだろう…?何かタイミングがよ過ぎるんじゃないか…?今までこんなことは一度もなかったのに…?銀行から後をつけられたんだろうか…?誰かがたれ込んだとしか思われない…そう言えば昨日銀行から戻った時にカバンを大事そうに抱えて家の中に入ってきたがその時ピーターが掃除をしていたっけ…イヤ、ピーターを疑うのはよくないナ…しかしそれにしても日本人が強盗の仲間な訳ないしやっぱりピーターか…?ゲートをすぐに開けたのもオカシイし…その日の夜になっても中々眠れず何故だろう?どうして?を考えていたがどうしてもピーターが一番怪しいことに考えがいった…。

翌日朝起きてすぐにピーターを呼び

「昨日の強盗はお前がインフォームしたのかもしれないし違うかもしれない、何しろ何の証拠もない。しかしもしオレがポリスにお前のことを言ったら棒で引っ叩かれ、鞭で叩かれ、臭くて汚いマラリア蚊がブンブン飛んでる牢屋にぶち込まれ、白状するまで1週間でも1ヶ月でも入ってなきゃならないぞ…それがイヤだったら今すぐにここから出て行った方がイイ!」と言ったら

「イエス…」と言い、それから5分後に風呂敷包み1つを抱え出ていってしまった…やっぱりそうだった…

ドウドウハウス

“月の~砂漠ヲ~ は~る~ ばると~…”、この歌を知らない人はいないだろうし、この歌の中の世界に自分をおいて陶酔しなかった人はいないだろう。しかし仮想の世界の夢物語、本の中の世界としたままそういった世界が現実にあるとは信じられなかったことも確かだった。

しかし、広い砂漠をゆったりとラクダに揺られて行く姿が夢を誘い、なだらかに続く砂丘も本当にあるような気がしたし、本当にあるなら自分もそこに行ってみたいと思った。

1975年10月にスペインのマドリッドを出発しジブラルタル海峡をフェリーで渡ってモロッコに入りそこからサハラ砂漠を縦断し、4ヶ月後の1976年2月にケニヤの首都ナイロビに着いた。

(サハラ砂漠縦断4ヶ月間に起きた諸々については別項で…)

我々がスーダンのJUBAで数日間過ごし国境を越えてケニア北部LOKICHOGIOに入ったのが

1976年2月12日。途中ホワイトハイランドと呼ばれその昔白人が移住したKITALEという町に1泊し、ナイロビに着いたのが翌14日。その頃は初代ケニヤッタ大統領が睨みをきかせておりナイロビ市内を夜の夜中に酒に酔った身体をフラフラさせて歩いていても何の問題もなかった。

一度ケニヤッタ大統領の誕生日に大統領官邸で催されたガーデンパーティーに招待され知人の政府高官に紹介されて握手したが大統領の手が何しろ大きくてがっちりし手の平の肉の厚みが暖かく真夏の野球のグローブと握手したようだった。しばらくはナイロビ近辺のキャンプ場に泊まったり知人の家にやっかいになったりしていたが何しろ気候がよく快適で当分は過ごしてみようと思いナイロビ郊外に手頃な庭付きの1軒家を見つけ日本からの旅行者にも開放した「ドウドウハウス」という民宿らしきことを始めた。

その頃は東アフリカや南アフリカ又はサハラ砂漠へ行きたいという旅人が多くその旅行の情報交換所にもなったし旅の疲れを癒す場所にもなった。又日本から来る人にミソ、梅干、マヨネーズなどを持ってきてもらったり新しい日本の情報も聞けたので大変便利だった。噂を聞きつけていかにも怪しげな旅行者やアメリカ人、ヨーロッパ人なども泊めてくれと言ってきたがベッド数に限りがあったし泊まっている仲間内でトラブルのはイヤだったから人選を厳しくし、ちゃんとした旅行の目的を持った人や自分のことは自分で出来る人だけを泊めるようにした。中には庭にテントを張らせてくれと言ってきた人もいたがいかにも目付き・態度が卑しかったり非協力的な人種とみえたら断るようにした。

食事などは全員で交代で作るか得意な人に腕を奮ってもらい、食事作りに参加しなかった人は後片ずけをすることになっていた。食事をするのもしないのも自由にしその当時のお金で朝食べた人は40円、昼を食べた人は80円、夕食を食べたら120円、宿泊代は160円と決め、宿泊代以外はキッチンに備え付けた帽子大のカゴに入れることにしていた。食べたのにお金をカゴに入れなかった人(忘れた人以外)には即退去してもらうことにしていた。食料の買い物は時間のある人行きたい人がカゴの中から自由に持って行って買い物をし、お釣りは必ずカゴの中に返すようにしていた。こういった約束事をキチンと守れないような人、自分を律することの出来ない人は旅行者として他人の国を旅する資格はないと思うし他人に迷惑を掛けても知らん顔し自分勝手な人達なのでドウドウハウスの宿泊はご遠慮願っていた。

泊まっている旅行者の中に誕生日の人もいてそのような時には飼っている鶏やウサギでお祝いをしたり庭でバーベキューをしたりしていた。温かい日には太めの竹を数本切ってきて庭で流しソーメンなどもしていた。

又このドウドウハウス宿泊中に知り合って結婚したカップルも2組おり、逆にお互いX(バツ)経歴を背負ってしまった人達もいた。

サハラ砂漠を共に旅してきたランドローバーが3台あったのでよく皆で動物を見に国立公園へ行ったり、観光客の行かないリフトバレーの底や鍾乳洞探検をしたりもした。

ナイロビから500km南に行くとモンバサという海の町があり全身をブイブイという黒い布で覆い、目だけを出して歩いているアラブの女性や、カンズというふわりとした白い布を体に巻き風のようにスイスイと歩いている男性を見ることができる。海岸に出ると白い砂浜が10km以上長く続いており手をつないだカップルや犬を連れて散歩している人達をよくみかけた。

そんな中に椰子の樹に囲まれてセルフサービスのコテージが建っており純粋なホリデー気分を味わうことができる。近くでは新鮮な野菜も手に入るし漁師が釣ってきたばかりの新鮮な魚をカゴに入れて売りにくる。最高の贅沢は椰子の実の殻を集めてきて燃料にし、その回りに石を置いて金網をおき伊勢エビ、イカ、タコなどを乗せて、塩を振って生のライムをしぼりむしゃぶりついていくとまるでこの世の極楽であった。

そんな時折の楽しみを続けて10年後、結婚を期にホンワカハウスのドウドウ民宿は閉じることにした。

今は2人の子供も20才を過ぎ間もなく手が掛からなくなるのであの楽しかったドウドウハウスを又始めてもいいかなと思ったりしているが果たしてどうなるか…

ふれあい祭り

世界各国どこの国へ行ってもそこに住む大概の外国人は同国人だけの集まりを持っている。

例えば日本人会・イタリア人会というように同朋が集まって、生活する上においての情報交換や

お互いの交流又は緊急時の連絡・伝達など又その方法の確認などを目的としている。ナイロビも例外ではなくケニア日本人会という会がある。アメリカやイギリス、中国などのように日本人在留者何万人というのには及ばないが1990年代にはケニア在住の邦人数は配偶者や子供を入れて約800人位だった。この数は日本人会に加入している会員数であって日本人会に入っていない人達も多くおり、3~6ヶ月の短期間の出張者などを入れると軽く1000人は越していたと思う。ところが2000年代に入ってからは日本での不景気又現地におけるビジネスの不況も影響し今迄4~6人の出張者で張りきっていた企業が何と1人だけのオフィスになってしまった。

しかしそこは底力のある日本人、例えば総合商社などは数年前から経費の掛かり過ぎる日本からの出張者に代わり現地採用の日本人を重視し始めてきていた。現地の事情を熟知した日本人を雇えば言葉、慣習、生活様式など何事によらず都合が良く、お互いにとって非常にいいことずくめの解決策なのである。このように駐在又は出張ということばかりではなく思いきって狭い日本から飛び出してドンドン海外に出てくれば日本にいるよりいいことが沢山ある。

ケニア日本人会では1年の内に日本人会総会、忘年会、運動会、ふれあい祭りという4つの大きなイベントがある。日本人会に加入しない人はそれぞれの思惑があると思うが『ふれあい祭り』

がある時には日本人会に入っている、いないに係わらず殆どの日本人が楽しむ為に集まってくる。

『ふれあい祭り』というのは元々“日本人会バザー”と呼ばれていたが1994年にその当時の日商岩井所長が日本人会会長、私が副会長の役を受けた時それまでの“バザー”という呼び方では売る人、買う人に分かれてしまって、食べ物や飲み物があったとしても催し物の内容が狭められるので、ケニアに住む日本人同士、普段はお付き合いのない人、顔を合わせても知らない人であっても年に一度お互い一緒にふれ合って楽しむ場にしましょうという意図から名称を『ふれあい祭り』に変更した。神輿担ぎ、化粧大会、盆踊り、綱引き、ビンゴゲームそしておでん、焼き鳥、お好み焼き、焼き蕎麦などの屋台もでるようにし朝から夕方まで大人も子供も一緒に踊って騒いで楽しい時間を過ごしていた。

今年2008年は9月27日(土曜日)日本人学校校庭において開催された。

今年のふれあい祭りの担当でもあるJICAの高橋所長や日本人会の担当者の方々より数回に亘りふれあい祭りに関するお知らせが日本人会会員にメールで配信され担当者の方々の並々ならぬ努力が伝わり又皆なで盛り上げていこうという気構えが感じられた。特に会場を提供して頂いた日本人学校の田中校長先生始め皆様のご尽力には本当に頭が下がる思いがする。

前日の26日金曜日午後3:30に出店する人達が学校に集まり翌日の最終的な打ち合わせとテントの位置や机の配置などそれぞれ確認を行なったが、いよいよ明日の本番に向けての出店者の真剣な眼差しがズーンと響いてくるようだった…

さて当日の出店の内容を見ると、

ゴルフ部 :焼きそば、ビール、パターゴルフ

三菱商事 :ソーセージで作るタコ・イカ、味付けゆで卵、ビール

婦人部会 :スタミナ丼、キャベツ一夜漬け、バザー

日本人学校:大根販売

SCC   :有機野菜、グアバ茶、ビーズ、キコイ、フェルト手工芸品

ドウドウ :韓国風オードブル、生のニンジンジュース、チーズケーキ

日本大使館:射的、アイスクリーム

学校PTA :イカ焼き、生ビール、手作り食品、ゲーム、古本市

JICA   :生ビール、焼き鳥、工芸品販売、指圧コーナー

陣屋   :日本食、巻き寿司、ドラ焼き、大福

などがあり又当日のプログラムとして日本国大使、日本人会長の開会の挨拶の後、子供達の和太鼓演奏、ウルトラクイズ、ノド自慢などそれ以外にも盛り沢山の出し物があり、最後にラッフルの当選発表などがあった。ラッフルはナイロビ市内にある各国レストランの食事券、タイヤ会社からのタイヤの寄贈、サファリ無料券、液晶テレビなどがありトップ賞はカタール航空ナイロビー日本往復航空券であった。 

出店者全員それぞれ1ヶ月以上も前から準備し全員素人ながら相当研究をしたようだったし、

それぞれが自分の店のデザインに工夫を凝らし味と飾りつけでお互い競い合った。

全部の店の出し物を紹介するには時間がないので例えば当ドウドウの出し物はというと…

うたい文句は『メザセアジアンビューティー』、黒い布を張った看板やテーブルにメニューを書き出し、韓国料理の中で日本人が好むジャプチェ(焼き蕎麦)、キムバップ(太巻き)、生姜焼きに使うのと同じポークを使ったポークベリー、チジミという日本でいうお好み焼き(直径6cm程のニラ、キムチ、ズッキーニの3種類)、赤い辛めのキムチと辛さを押えた白いキムチなど。

それとメインはこれを飲めばアジアンビューティーになる第一歩を踏み出せるという自信を持たせてくれる混じりッケのない、この日の早朝に畑から掘り出したばかりのニンジンジュースをメインに売りだした。そして黄色の下地に当ドウドウのロゴでもある紺色のカバの顔とお尻をあしらったTシャツをユニフォーム代わリにし弊社のアジアンビューティーを目指す若い女性7人がそれこそ黄色い声を張り上げて他店に突出したエネルギーで一番の売上を記録した。

明るい太陽の下、黒い布で縁取った店の中で黄色いユニフォームが動くと実に派手やかな色彩になって楽しくなる、こういったアイディアを出したのは当ドウドウ入社2年の佐久間美津子。

瑞々しいニンジンジュースを自分の家の畑から持って来てくれたのは通称マライカハイランド(天使の森)と呼ばれているナイロビ郊外標高約1900mのリムルに住み、日々地球の自然と語り合うことを楽しみとしている宮城裕美子さん。

来年は又新鮮なニンジンジュースを搾り、日本独特の「たこ焼き」を出店し皆様に精一杯お祭り気分を楽しんでもらおうかと考えている。

食べ歩き情報その②

日本では米が主食で毎日食べても飽きない、と言うか生まれた時から何の疑いも持たずに食べているのでそれが当たり前だと思っている。中には特に若い世代の人達は米よりもパンを主食としている人が多い昨今、米を食べると太るとか、米を食べる姿が田舎っぽいとか、米と言うそのものの響きがダサイと感じる人もいるとか聞く。しかし私にとって日本米のあの艶々した光は思わず生唾を飲み込まずにはいられない誘惑の光を持っている。

私がケニヤに来て32年、既に人生の半分以上をこのアフリカの大地で生きてきたことになるが、食べ物に関してはそれ程不自由を感じたことはない。ケニアでも米を作っており又インド、パキスタンなどからも輸入している。日本米に似たカリフォルニア米も流通しているがしかし矢張り日本米のあの甘い輝きに勝るものはない。

東アフリカ又は南アフリカ周辺国での主食はトウモロコシである。米を炊くとご飯と呼び名が変わるようにトウモロコシはウガリという呼び名になる。国によってはシマとも言う。ケニヤで食べるウガリは団子ほどの固さになるがマラウイでは(シマという)つき立ての柔らかい餅のようになっている。ケニヤのウガリに慣れた目(口)から見ると“何と頼りない!”ように見えるがこれが何と2~3回も食べると味に親しみが持てるようになり、ウガリにあるツブツブの感じがなく食事の時間が待ち遠しくなる。

ケニヤの西に大きさでは世界3番目のビクトリア湖がある。広さは九州全土の約2倍。その湖の東岸にキスムというケニヤではナイロビ、モンバサに継ぐ大都市がある。このキスムから約50km離れた、これも湖岸に沿ってひっそりとたたずむ漁師村がある。この村の周辺には日本の2階建て家以上の大きさの岩がゴロゴロしておりアチラコチラに数個の岩がバランスを取りながら重なっているのが見える。言い伝えによるとその昔は巨人の積み石の遊び場だったと言われている。それぞれの村人の住む家はこれらの岩にしっかりとガードされるように建っていて、この岩の上からビクトリア湖を望むとその広さに圧倒される。浜辺で漁師が網を広げて干しているのもよく見える。

この岩の上に手頃なヘコミがあって7~8才の女の子がこのヘコミの中に白いトーモロコシを入れそれを丸くなった石でゴロゴロ転がして挽いて粉にしている。膝をついてやっているので思わず自分の膝を抱えてしまう。ケニヤの一般家庭では男の子も女の子も小さい時から家の仕事を手伝うようにしつけられている。そう言えば自分の子供時代も学校から帰ると鶏、ウサギの世話からマキ割りや手漕ぎポンプの水道で風呂に水を入れたりしていたナ~と思い出す。

さてその挽いた粉を丁寧に集めて鍋に入れ、家の中で待っているお母さんに渡す。お母さんは

それを熱湯に入れてかき回し粘土状になったら蓋をするか鍋そのものを逆さにして5分程蒸らす。このかき回すのが力の要る仕事で先端がへら状になった棒で10分から15分休まずにかき回さなければならない。だからアフリカの女性は腕、肩の筋肉が盛り上がりそこら辺の男なぞより腕力がある。

このウガリを油で揚げたてのナイルパーチ(日本でいうスズキ)と一緒に食べるとウガリの旨味と魚の甘みが溶け合って得も言われぬ味になりついつい食べ過ぎてしまう。

ナイロビ食べ歩き情報①

(10月2013年からのブログなので情報が現在変わってる場合があります。)

ナイロビには日本食以外にもインド、中華、イタリア、フランスなど古くからあるレストランもあるし最近新しくオープンしたレストランもある。約1年程前、ウエストランド地区にブラジル系のレストランがオープンしまあまあいける。先日日本から来た新婚のカップルが地球の歩き方を開いてこの店に行きたいというので見たらナイロビ市内にあるイタリアンレストランだった。思わずそこはやめなさいと言いかけたが何とか思いとどまった。何しろこのカップルは行ってみたい公園やレストランに付箋を引いていてそういったところへ行くのも二人の観光の目的でもあり楽しみでもあるので頭っからそこがダメとは言えないではないか…。マ、良い思いでになればヨシと陽が暮れてから3人でそこへ行った。ナイロビはイギリスの影響を受けているので例外を除きホテルやレストランのディナータイムは夜7:30からとなっている。3人共スパッゲティーを注文したが案の定皿一杯のタップリした油の中にスパゲッティ-が浮いていた。

ナイロビ郊外、と言ってもムサイガ、ウエストランド、ミリマニ、カレンなどの地区にもイタリアンレストランが数軒ありそれぞれがイタリア直輸入の材料を使っているので中々の満足度である。そしてそれらのレストランではその店自慢のハウスワインを置いてある。特別気に入ったワインがあるならまだしも私の場合はまずハウスワインをオーダーする。店によってはブレンドしたものを置いてあるが下手にワインリストで選ぶよりまず間違いはない。普通は初めに赤ワインをグラスで頼むのだがカレンの店に行った時は、どういった訳か無称に白が飲みたくなったのでグラスで白を頼んだ。「オッ,久しぶりにイイタッチだ!」というわけでその後1リッター瓶をオーダーし結局1人で飲み干してしまった。飲んだ後も非常に爽快で二日酔いらしいこともなく翌日の目覚めも爽やかだった。

私はスピナッチとリコッタチーズの入ったカネロニが好きでどこへ行ってもそれがあるかどうか聞いてみるが殆どメニューに載っていない。時折ムサイガやウエストランドでシェフの機嫌が良い時にスペシャルで作ってくれるときもあるがいつでも食べられないのがちょっとサミシイ。

ここ数年混雑するナイロビ市内から逃れウエストランド地区に移ってきている会社が多く又レストランなども国際色豊かなレストランも増えている。ジェネラルマセンゲドライブの「Le Rustique」というドイツ人がオーナーのヨーロピアンレストラン アンド カフェといった雰囲気の店で出すクレープ類はナイロビでトップクラスと言えるだろうし、林に囲まれてちょっとワケありカップルが静かに時を過ごす…といった雰囲気の「About Thyme」で出すイカリングもナイロビでは指折りである。この二つのレストランは奥さんがキッチンに入って采配を振っており旦那は店の中をウロウロしている。中華でお勧めのパンダやチャイナジャンスーも女性がオーナーである。これら中華もその場で頼むよりシェフお任せで少なくても1日前に予算と人数を知らせておくと普段は食べられないメニューにない料理を出してくれる。4人以上の場合、こういったやり方でオーダーすると店の方でも一生懸命考えてくれるしオヤッと思う料理も時折出てくるのでこちらも楽しくなる。ぜひお試し頂きたい・・・