毎日の生活

テロと観光その②

僕が子供の頃、と言っても中学・高校時代、《ケニア!》という名前から連想したのは猛獣、マサイ戦士、ジャングル、探検隊など。しかしそれらは映画や本の中だけの世界であって普段我々が生きている世界とは全く別の世界のことだと思っていた。しかしそういう別世界であっても実際にどこかにあるんじゃないか、もしかしたら行けるんじゃないか、行きたい、行ってみたいという願望が年々強くなっていきアフリカやターザンに関する映画があると親に内緒で観に行き、世界地図を壁に貼り、地球儀を回し、まだ見ぬ世界を想像し

一人静かに興奮していた。

 

今から30年以上も前になるが当時“サファリラリー”というケニア、タンザニア、ウガンダ3国にまたがる5,000キロのダートコースを5日間で走るラリーがあり、国民的行事にまでなっていて当時のケニヤッタ大統領がスタートの旗を振るのが習わしになっていた。出場車の3分の1が完走できればいいという酷暑下の過酷なラリーで、石原裕次郎主演の『栄光への5000キロ』という映画のロケが行われたこともあった。

1982年、ケニア空軍によるクーデター未遂事件があり、その後は貧困、病気、孤児などネガティブな面が表面に押し出され、援助関係のNGOなどが増えていった。

1998年、ナイロビ市の中心街にあったアメリカ大使館がテロリストにより爆破され、それ以降はケニアというとテロ、危険、恐怖のイメージが先行してしまっている。

 

しかしケニアは面積から言えば日本の1.6倍。5000m級の山々、大河、森林、サバンナ、砂漠、海などあらゆる自然が豊富でその中で各種スポーツも盛んに行われている。

ケニアというとサバンナの勇士マサイの戦士に代表されるが、42部族ある中で全体の約半数近くを占めるキクユ、カンバの人々は元々農業に携わっており、地球(土)と親しんでいるせいか性格は日本人に似て大人しく優しい人が多い。

ケニアは動物王国と言われ、野生動物は国立公園・国立保護区だけでなく人間が住む町や村の近くにもいて、幹線道路を走っているとキリンやシマウマが道を横切ることがある。そんな時には勿論人間の方が遠慮して車を止める。しかし時折象やバッファローが畑に入り込み、折角実った農産物を根こそぎ食べられてしまうこともある。そんな時は農家の人々にとっての野生動物は害獣となりそれなりに対処しなければならない。

上述のテロなどは全て他国人が起こしたもので、そういったテロリストを排除するのにケニア政府は断固とした方策を取り、取り締まりを強化している。ケニアはアフリカ大陸の玄関口ともいわれ諸外国から投資目的のビジネスマンが大挙して押しかけてきている。

ナイロビに居住している我々外国人もビジネス、ショッピング、ゴルフ、テニス、動物サファリなど普段と変わらぬ生活をしている。ケニアの経済(特に庶民生活のレベルに於いて)は依然としてインド人が握っているが。ここ数年は中国人の流入が激しく彼らのマナーには流石のインド人も眉をしかめている。僕なんかは早く中華街ができないかナ~と期待にお腹が膨らんでいる。

ナイロビ近景その⑨

日本人の経営する居酒屋がいよいよオープンした、店の名は“CHEKA(チェカ)”。

30代の日本人男性2人がオーナーシェフ。“CHEKA”とはケニアで日常使われているスワヒリ語でその意味は“笑う”。お客様に気軽に入って頂き、気軽に飲み、気軽に食べ、楽しい人生を笑顔で気軽に話し合うという意味が込められている。店に入ると4~5名いる女性スタッフの明るい声と笑顔が迎えてくれ、キビキビと動く姿が実に気持ちが良い。

開店したてで品数はまだ少ないが、久しぶりの日本人が作る日本人の味に思わず頬が緩む。

以前は日本人の経営するレストランは6軒、他は韓国人やイスラエル人。しかしアフリカでビジネスを続けるのは至難の業、日本人の経営するレストランは2年前を最後に全て引き上げてしまった。新開店したチェカに期待したい。4月には日本の大手のレストランチェーン店も進出するときいている。現在はこのチェカを含め日本食レストランは14軒、シェフは韓国人かフィリッピン人。それなりのカツ丼やチラシ寿司もあるが矢張りチェカで食べる日本人の味とは比較にならない。

ナイロビにはオープンマーケットが沢山あり、畑から直接運ばれてくる新鮮な野菜・果物がジューシーな光を放っている。それを見るだけでも楽しくなる。これら新鮮な材料を使った日本人の味に今晩も足が自然に向いてしまう。

ナイロビ近景その⑧

忙しさにかまけ独り言を無精してしまった。

昨年は5月~12月まで日本の“風に立つライオン”の映画ロケ手配に忙殺され本業である旅行関連は他のスタッフに全て任せざるを得ない状況だった。1月に入り映画の精算も終わりホット一息ついて久しぶりに周囲を見回してみた。

治安に関連した危険な情報は聞かれなくなり、エボラ熱も下火になってきた様子。

2月中に日本人経営のレストランが2店オープンする。1店はナイロビ市の中心街に鳥をメインにしたレストラン(トリドール)。もう1店はナイロビ郊外に開く個人経営の居酒屋。

1~2年以内には焼き鳥屋もオープンするという噂もある。このようにドンドン日本人がケニアに進出して来ると何やら嬉しくなってくる。

ケニアは以前は野生の王国といわれ、キャラバンを組んで冒険旅行に出かける人で賑わっていた。その頃は動物ハンティングも許可されケニア在住日本人の中で狩猟サファリに興奮していた人もいた。同時期にケニアというその名前の持つ野生のイメージに魅かれ、チャンスに挑戦しようと希望と期待を持って移住してきた若者達も多くいた。

時は進み、今では車で楽に回れるようになり、銃ではなくカメラハンティングになり、

ケニアは世界のビジネス投資家の熱い眼差しに捉えられるようになった。しかし今ここにきて大和男子の夢を見る熱い心に再び火がついたようだ。

 

ケニアには大小合わせ国立公園・国立保護区は40ヶ所ありその中でも代表的な3大公園と言われるのがマサイマラ、アンボセリ、ナクル。そういった所も以前と比べ様変わりしているがしかし良い方に変わったとは言えないのが残念。

マサイマラ国立保護区:野生動物の数と種類が世界でも最大と言われておりサファリのメッカと言われているがあまりの人気が高いせいで何と宿泊用ロッジが50軒を超えてしまった。その上マサイの牛が草を求めて保護区内に入り始め動物を脅かしている。

アンボセリ国立公園 :キリマンジャロ頂上の雪が年々地球温暖化の影響で少なくなってきているがその雄大な眺望は相変わらず神々しい。

ナクル湖国立公園  :数年前からの多量の雨のせいで水位があがりフラミンゴが住める環境ではなくなり又緑のサバンナも水没してしまい野生動物も少なくなってしまった。

テロと観光

ケニアの首都ナイロビから西へ約4キロ、ウエストランドという副都心がある。

5星クラスのホテルや有名なレストランなど混雑した市内から移ってきている。

新しいオフィスビルやショッピングモールも次々にオープンし人々の生活の場として賑わいを見せている。そんな中で9月21日(土)イスラエル系の資本の入った近代的なショッピングモールの一つにテロリストが乱入し警察との銃撃戦などがあった。BBCやCNNが世界中にその映像を流しそれを観た人達は“又か!”と思ったに違いない。勿論僕も観たし僕の家族も友人も知人も観た。観て感じたのは“まるで戦争みたいだ!”ということだった。恐ろしいんだ、恐いんだ、とそれこそ朝から晩まで連日流され続けた。

日本からケニアに旅行の予定を立てていた人はそれを観てケニア旅行を中止したひともいたほどだ。大手旅行会社で主催するツアーは到着日のナイロビ泊を中止し、空港からそのまま国立公園に向かう日程に変更したりした。勿論何の問題もなく楽しいサファリをし、面白い経験を沢山抱いて日本に帰って頂いたがこのテロリスト達のせいで観光立国ケニアのイメージが少々傷ついてしまった。

ケニアに観光で来る人が少なくなったとはいえ野生動物はそんなことに惑わされずいつものように生きている。毎年7月~9月に世界の七不思議の一つと言われているヌー(うしかもしか)の大移動がある。7月にタンザニアのセレンゲッティー国立公園からケニアのマサイマラ国立保護区に移動し9月に入ると逆にケニアからタンザニアに戻る。

だがケニアとタンザニアの国境近くに進路を遮るマラ河がある。平均幅約50m深さ2m以上ある激流でそれを10万頭という大群が泳いで渡る。場所によっては水面までの落差が20m以上もある崖を駆け下り、泳ぎ、反対側の崖を駆け上がって行く。そして激流の中で待ち受けているのがワニだ。必死に泳いで渡るヌーを水の中に引きずり込むとアットいう間に数頭のワニが群がって来る。

こういったハイシーズンにはマサイマラ保護区に50棟以上あるロッジは殆ど全て満室になる。3年前から予約金を払っても部屋の確保ができないこともある。

マサイマラ保護区だけでなくナクル湖国立公園やアンボセリ国立公園などメジャーな公園のロッジも予約が難しくなる。ナイロビ市内には4~5星のホテルは約30軒あるがこれらも殆ど満杯になる。最近は観光客だけでなくビジネスや政府関連の会議などでケニアに来る人が多くなりホテルだけでなく日本食、中華、イタリアなどのレストランも予約ナシではいいテーブルが取れないときもある。

ケニアのビール

TUSKS(タスク)とは英語で象の牙のことだがTUSKER(タスカー)と呼び名の付いたビールがある。タスカーはケニアで一番飲まれているビール。ナイロビのレストランではビールを注文するとき、ビールと言わずタスカーという。そうすると「冷たいのか?」と聞いてくる。通常日本でビールをオーダーすると何も言わなくても冷えたビールが出てくるのが当たり前。せいぜい生かビンかと聞かれるくらい。何にしますか、というのはサッポロにするのかアサヒにするのか又は他の銘柄にするのかということ。又はジョッキの大か中か…。ナイロビのインターコンチネンタルホテルやヒルトンなど世界的に有名なホテルのレストランでも「バリディ?モト?」と聞いてくる。バリディは冷たい、モトは温かい。僕は日本人だから当然『バリディ!』と答える。しかしケニアに長く住んでいる日本人など『モト!』と大声で注文する人もいる。ケニア人の多くはモトを飲む。冷やしていないビールの方が味が濃いというのが大方の意見だが元々アフリカはつい最近まで冷蔵庫も氷もない暮らしが続いてきたので冷えていないビールを飲むのが当たり前でその習慣がいまも引き継がれているものと思われる。そしてもう一つの理由は冷たい飲み物を飲むとお腹が冷えるのでよくないということもある。

ケニアの地方に行くと蜂蜜酒を造っている家がある。素焼きの瓶に水、乾燥したソーセージツリーの実、蜂蜜、炭を入れた簡単なもので3日もすると発酵が始まり、7日目あたりから飲めるようになる。現地ではこれをビールと呼んでいる。

ナイロビは海抜が約1700mなので水が沸騰するのは約95度前後。モンバサという海岸都市では勿論海抜は0なので100度で沸騰する。そして海抜の低いモンバサの方が蜂蜜酒の発酵の仕方も強く味も濃い気がする。

ダイエット

最近何となく身体がダルク、注意も散漫になってきたようでとうとうオレもどっかおかしくなってきたかな、と先ずは体重計に乗ってみたら普段より3キロも多かった!これじゃ~動きも鈍くなってるハズだ!確かに近頃は運動不足気味でこれではイカンと少々焦ってきていたところだったが食べ過ぎた覚えもないし飲み過ぎた覚えもないし…?

僕は身長が174cm、体重は72kg前後がベストだが先ず食べることが好き、その上酒を飲むのも好きときているので通常は76kgあたりを維持している。かと言って暴飲暴食をする歳でもないし、そういえば最近特に階段を上る時に膝が痛むことがあるがこれは体重が増えたせいで負担が掛かり始めたんじゃないか、コリャ~手遅れになる前に何とかしなければといつものダイエットをすることにした。

僕のダイエット方法は簡単で約1週間毎日野菜スープを飲みそしてその野菜を食べるだけ。

飲めば飲む程又食べれば食べる程体内のカロリーを追い出すので普段よりお腹は空くが歯を食いしばって我慢する程のことではない。この方法は数年前、ある知人から教えてもらったものでダイエットを始めて6日目には体重が5キロも減っていた。年2~3回はこのスープダイエットをしていてそうすると体内の不純物が出て行くような気がする。

2週間続けると8~10kgは間違いなく減るがあまり急激に体重を落とすと眩暈がして力が入らず仕事も手につかなくなるので僕の場合は大抵1週間で終了。但しその後も飲み過ぎ食べ過ぎには気をつけている。

このスープに入れる野菜は5種類。初め知人から聞いた時は『そんなんでホントに体重が減るのかな~?』と半信半疑だったが、実際にやってみたら本当に体重が嘘のように減っていた。そのダイエットの際中に摂ってはいけないものは油もの、アルコール類、炭水化物など。但し毎日同じ野菜スープばかりでなく日替わりで食べてもいい他の野菜や果物、肉、魚などがあるので意外と楽に体重を落とせる。

このスープ生活をすると体重が減り身体が軽くなるので嬉しいことは嬉しいがそれよりもその7日間の間、好きな食べ物を控え、好きな酒も一切飲まず、我慢してやり遂げたという達成感の喜びの方が自分にとっては大きい。夕食時、家族が親子丼、すき焼き、オデン、塩シャケなどニコニコしながら美味しそうに食べているその同じテーブルで自分だけが野菜スープだけを飲むというその拷問に耐えられたということこそが本当に嬉しい!

ご希望の方にはレシピをお送りします。

 

今から38年前(1975年~1976年に掛けて)、4輪駆動車でモロッコからケニアまでサハラ砂漠を縦断したことがあるが日本出発時84キロあった体重がナイロビに着いた時には何と68キロになっていた。熱帯性マラリア、熱射病などで死ぬ思いをしたこともあるが自分では“もうこれで終わりかな”とかそういった意識はなかった。今考えても楽しかった思い出の方が多い。その中で今でも思い出すのは砂丘の彼方にゆっくりと沈んでいく信じられないほど大きく、トマトをドロドロに溶かしたような真っ赤な太陽で、その強烈な自然の中に立っている自分を実感した時、その言いようのない感激に鳥肌が立ったことだった。

ナイロビ近景その⑦

ケニアの10、11月は小雨季のシーズン、夜は激しく降るが陽が昇ってくる頃には止む。

日中に降ることは少なく時折小雨がちらつく程度。例年なら9月末頃になると咲き始めるジャカランダが今年は10月になってから紫の花がポツポツと出始めてその上色が薄く元気がない。この時期になるとクンビクンビという大きい羽蟻が大量発生し地面から飛び出して来る。夜は明かりに向かって飛んでくるので部屋の中で電球を点けたまま窓を少しでも開けていると大変なことになる。家の街灯の周りも飛び回るが、それを狙ってピンクのヤモリが大喜びで出てくる。

 

ナイロビ市内では毎週火曜日、水曜日、金曜日、土曜日、日曜日にそれぞれ場所は違うがマサイマーケットが開かれる。マサイマーケットとは言ってもマサイの人々が作っているものだけではなくエボニーの木彫り、ローケツ染め、ビーズ製品、パシミーナ、キコイ・カンガなどの布製品、へマタイトの首飾り・ブレスレット・指輪、サイサル麻の製品など色々あって結構楽しめる。決められた値段というものはなくそれぞれの売り子によって違う。始めは相当ふっかけてくるので買う方もそれに合わせて値切っていく。売る方も値切られるのを見越して値段を言ってくるのでその値段交渉が又楽しい。売子はたいてい女性で男は客引きのようなことをしているのが多い。こちらの店で1000円で売っている布が隣の店では同じものでも3000円ということもある。物にもよるが大体は10~20倍で吹っかけてくる。ナイロビに住んでいれば自然とそれらの卸値が判ってくるので売値の半分どころか20分の1から交渉を開始する。中には2m以上あるキリンとか20kg以上あるサイの木彫りを買い、その店に頼んで郵送する人がいるが梱包の仕方が杜撰なので角が折れたりヒビが入ってしまったりする。そういった場合には専門の業者に依頼した方が良い。日本でワクワクしながら荷を開き、ガッカリするのは誰しもイヤなものだし接着剤のお世話にならなくて済む。

ナイロビ市内を車で走ると交差点の中心に直径30mくらいのロータリーがある。ROUND-ABOUTといい、直線する車も右折する車もこの外側をグルリと回って行く。

古いイギリスの植民地時代の名残だ。ロータリーの中には花や木を植えてあったりし、時には噴水もあったりする。車が少ない時にはいいが近頃のように車の数が多くなると交通渋滞の原因の一つにもなっている。しかしこれを取り外して普通の交差点にしてしまうと信号無視の車がドンドン突っ込んで来て事故が多くなるからこのままにしているとも聞いた。以前僕も運転していて信号のある十字路に差し掛かった際、黄色から赤に変わったのでブレーキを踏んだら後ろから追突されたことがあった。追突した車の運転手がわき見運転をしていた訳ではなく信号が黄色から赤に代わったばかりなら当然アクセルを踏んで突っ込んで行くのが当たり前なのに『何で止まったんだ!』とブレーキを踏んだこっちが悪いとばかりにまくし立てていたものだった。この類の事故は殆ど毎日ナイロビ市内のどこかで起きている。

ナイロビ近景その⑥

英語にしろ日本語にしろ最近出版されている世界旅行案内関連の雑誌はナイロビの治安の悪さを必要以上に誇張しているものが多くなっている。これじゃ~読んだ人は恐がってケニアに来なくなるんじゃないかと日本で発行しているある旅行者向けの本の編集者にもう少し柔らかく書いて欲しいと言ったことがある。ところがその編集者が言うには例えばナイロビは高原性気候で爽やかな風が吹き、ブーゲンビリアやハイビスカスなど色とりどりの花が咲き、街からも近いナイロビ国立公園ではシマウマ、キリンなどの野生動物が沢山見られ人々も大変親切で楽しい所、と書くのは本当のことだからそれはそれでいいが、それと同時に町を歩く場合は片言の日本語で声を掛けてくる人には気をつけよう、置き引き・引ったくりに油断しないようになどともと書かないとならない。そういったトラブルが起きるかもしれないという注意書を書いていないともし事が起きた場合、その編集者又は発行元は不適切・不親切・怠慢という理由で訴えられるということだった。海外旅行をしようとするなら自分のことは自分で責任を取るというのは常識以前の問題で同じ旅行者仲間又は現地の人々に迷惑をかけないようにするのが当たり前だった。だが最近は自分の身に都合の悪いことが起きる又は損をする立場に陥るとやたらと他人のせいにしたり自分は被害者だと喚きまわったりする。そういう心配性の人は一人旅ではなくパッケージツアーに参加すると安心できるのでそちらをお勧めする。

大分前になるが世界の放浪人の間ではリオ、バンコック、ナイロビに足を踏み入れなければ世界を旅したとは言えないとまでいわれた時期があった。リオは情熱的、バンコックは情緒豊か、ナイロビは情熱と情緒を合わせ持った街でその不思議な魅力が旅人の間で噂となっていた。下町の安いホテルが集まった一角はナップザックを背負った旅行者で一杯になり市内のさる有名なコーヒーショップでは朝からお互いに情報交換をする旅人で賑わっていた。しかし1998年、アルカイーダによるアメリカ大使館爆破事件以来旅行者は激減し、下町のホテル街は全く様子が変わってしまった。以前は市内中心部にあるシティーマーケット前の通りには土産物屋が軒を並べ世界各国からの旅行者も多く集まりツーリストアベニューなどと呼ばれた時期もあったが今はネクタイを締めた若者が多く見られる。

バックパッカーなら誰でも一度は利用したことのあるナイロビの下町にあったイクバル(IQBAL)という有名なホテルはレストランになり、店内の電球を全て緑色にし夜8時過ぎると座るどころか立っていてもボーイが通る隙間もなくなるほど人で一杯になるグリーンバーもレストランに様変わりしてしまった。今なお旅行者用ホテルとして健在なのはリバーロードのニューケニアロッジだけになってしまっている。

ナイロビ近景その⑤

ケニアの東側はインド洋に面していて昔からアラブ、オランダ、ポルトガル、インド、中国などの国々との交易が盛んだった。それがあってケニアは東アフリカの玄関口とも言われ港で陸揚げされた多くの物資がウガンダ、ルワンダ、ブルンジなど内陸の国々に運ばれて行った。その途中の経由地がナイロビで、今はケニアの首都になっているが外国の食べ物も同時に入ってきたので現在でもアフリカ料理だけではなく諸外国の料理を食べさせてくれるレストランが多くある。しかし元々ケニアの人々の主食は豆類がメインなのでナイロビの庶民が行くレストランは栄養があって値段も安い豆類が多い。代表的な食べ物に“シマ”というのがある。粉にした白いトーモロコシをお湯に入れ、ムイコという先端がヘラ状になった木の棒で約10分程かき混ぜる。通称“ウガリ”ともいう。ある程度固くなってきたら蓋をして鍋を逆さにし5分程蒸らす。急いでいる時は蒸らさずにそのまま皿に盛ることもある。そのままだと表面に粉のツブツブが残っているので食べ易い大きさに切り、手の平でコネながら丸くしていく。コネコネを10回ほどやるとツブツブがなくなり、表面がスベスベになるのでその真ん中を親指で軽く押し窪みを付けてその中に肉や野菜を乗せて食べる。魚類などは玉ねぎ、コリアンダーなどと煮込むことが多くその煮込んだスープがまた栄養たっぷりでウガリによく合う。ケニア内陸部のビクトリア湖で獲れた淡水魚のティラピアも美味。ナイルパーチも脂が乗ったのをそのままフライパンに油を入れて揚げると表面が軽くカリっとし、それと一緒に食べるともっと美味しい。ナイロビ市内の店では鶏肉や牛肉のシチュウと食べるのが多いが僕の場合はなんと言ってもヤギの肉が大好物。ケニアのヤギはニオイがなく適度に油も乗り火で焼くと甘く香ばしい香りがして思わず喉がゴクリとなる。野菜はスクマウイキというホウレン草に似た葉を細めに切ってトマトや玉ねぎなどと一緒に炒める。これも慣れると葉に含まれるている甘さが滲み出てほっぺたの内側がとろける。このスクマウイキ、日常の会話の中ではスクマと言うがSUKUMA-WIKIと書く。SUKUMA=押す、WIKI=週という意味。何故そのような呼ばれ方になったかというと…スクマはジャガイモ、キャベツに比べ非常に値段が安い(一束一人前4円)。そして昔は給料が週1回、金曜日に支払われていた。給料を貰うと後先は考えず、たらふく飲んで食べてしまい貰った給料は全部使い果たしてしまう。もしも月1回の給料とすると残りの29日間はジリ貧の生活になってしまう。その為週1回に払うことにした。給料日の金曜日と翌日の土曜日は肉を買って家族に食べさせることができるがその後は金がなくなってしまい金曜日まではスクマだけの生活になってしまう。そこで1週間はスクマを食べて金曜日まで元気に過ごそう(生活を押す)ということになる。

それとよく見かけるのが道端で焼いて売っているトーモロコシ。チョマと言うが1本20円。多少固いが炭火で焼いているので思いのほか香ばしくお腹も満足する。

又最近はスーパーなどに買い物に行くと仕事帰りの女性が中国製のインスタントラーメンを5~10袋、買い物籠に入れている。子供たちが学校から帰ってきた時に夕食までの間のおやつとして食べさせたり夕食時ウガリやスクマと一緒に食べることもある。但し麺を茹でた後のスープは捨ててしまい麺はキャベツなどと混ぜ合わせ焼きそば風にして食べる。

ナイロビ近景その④

独り言を書き始めた頃、食べ歩き情報と題してナイロビ市内のレストランなどのことを書いたが既に2年近く経ってしまったので今日はその移り変わりの最新情報を…

少し前まで短期間にしろナイロビで暮らしていた人なら一度は行ったことがあると思うけれどもウエストランド地区にあった韓国人経営の日本食レストラン“東京”、それとミリマニ地区にあった“御園”が閉店した。どちらも日本人にはそれなりに馴染みのあるレストランだった。レバノン料理兼寿司バーのPHOENICIANはウエストランドからダゴレッティーのジャンクションモールに移転。日本食レストランといっても種々あるが刺身や寿司を出す店というのは他の店と違い新鮮な生ものをお客様のテーブルに供するので非常に気を使う。使わなければならないのだが中には気を使うどころか相当大雑把な店もあるので気を付けないとならない。

日本人経営の日本食レストランとしては以前はサムライ、日本人クラブ、赤坂、将軍、

シェラミ、ゼフィールなどあったが今営業しているのは代替わりした日本人クラブ1店のみ。数年前にオープンしたイスラエル人経営の日本食レストラン“大波”では中国の大連にある日本食レストランから中国人の板さん5人を引き抜き華々しくデビューした。ある日その店のカウンターで板さんのチーフと話した時、米の話になった。ナイロビのどの日本食レストランでも日本米は欲しいが輸入するにはコストが高くとても手が出せない。それでその代わりに隣国ウガンダからの水稲米を使うところが多い。ところがこの“大波”では中国から入れているという。どうりで艶が少し違うなと思っていた。だがご飯一粒一粒の周囲は柔らくても芯が硬くどうしても日本米のようにはいかない。日本の電機釜を使っているのにと言っている。それでチーフによく聞いてみたら米を炊く時に水加減を多くしたり少なくしたり時間を調節したり色々やっているが中々ふっくらとしないということだった。そこでフット思ったのはこのチーフはここナイロビは1700mの高地にあるのを気が付いていないんじゃないかなということだった。聞いてみたら矢張りエッ?いう顔をした。海抜0メートルの所で炊くのとは炊き上がりが違うので一度圧力鍋で柔らかくしてみればとアドバイスした。翌日行ってみたら米がふっくらしお寿司も美味しく食べられた。僕はお寿司というのはネタが新鮮なことは勿論だがシャリがメインだと思っている。

柳沢きみお(漫画家)さんのように固執したコダワリはないが(でも近いかな…)ニギリが大きくもなく小さくもなく、熱くも冷たくもなく、ふっくらとほのかな甘スッパサが口の中で広がって胃袋に下りて行く感覚に幸せを感じる。

6年程前にベトナム料理のレストランもあったが半年でクローズ。つい3ヶ月前に閑静な住宅街にエジプト料理のレストランがオープンしたというので行ってみたが見よう見真似でやっているようでまだまだお客に出せるまではいっていない。

韓国の焼肉レストランは数年前は3軒あったのが今は全てクローズした。

韓国食材店が1年前にオープンしたが買いに行くのは日本人が多い。韓国の食材と言っても殆ど日本食と同じで、ラーメン、ウドン、ノリ、ラッキョウ、米、カッパエビセン、酒、ソースその他殆ど日本のものと同じ。同じだが矢張りどこか一味違う。しかしこの店のママさん手造りのオイキムチ(キュウリキムチ)は絶品!。又別の韓国人は日本のパン屋で働いていた経験を生かし日本で食べるのと同じような食パン、カレーパン、アンパン、クリームパンなど作って売っている、中々繁盛している。

日本人でも10年以上前から在住邦人の為に惣菜を作っている人もいる。豆腐、コンニャク、油揚げ、厚揚げ、さつま揚げ、ガンモドキ、納豆、味噌など本当に助かる。しかし材料となる大豆の質がいつも同じではないので大分苦労しているという。それ以外にもアジフライ、イカフライ、焼き鳥、餃子、コロッケなどの冷凍ものもあり、ダシの素、ソース、マヨネーズ、ウドン、ソバなども売っている。以前は日本に行く度に日本食をダンボール2箱に目いっぱい買い込んで持って来ていたが最近はその必要もないので助かっている。

ナイロビ近景その③

ケニアは4,5月の大雨季の後6,7,8月は日本など北半球の冬の時期にあたり大変寒い。寒いと言っても朝夕12℃前後、日中は22℃くらいで日本でいうと9月末~10月にかけての季節に当るだろうか…。その位では日本ではまだまだ暖かいと言うだろうけれど南半球、それも赤道直下のケニアに暮らす僕などは毎日クシャミの出っ放し…!

昨年は指に息を吹きかけもみもみしながらパソコンに向かっていた。今年は風が冷たいがセーターを羽織って丁度良い。今は7月だが8月はもっと寒くなるかも知れない…。

来年2012年に大統領選挙が行われる。5年毎の12月に行われていたが来年は繰り上がって8月になる可能性が大。毎年8月は観光シーズンで特にヌーの河渡りなど一番激しく興奮の度合いが高くなる。そのように国にとって大切なシーズンだということを政治家

達の都合の為だけでなく国民の為に真剣に考えて欲しい。ケニアは農業関連が外貨収入の主たるものだが野生の王国・動物天国としても名が知られているように動物サファリに代表される観光立国でもある。1998年8月ナイロビ駅近くのアメリカ大使館がテロリストにより爆破され、それによって観光関連事業は深刻なダメージを受けた。それ以来観光客の足は遠のき未だ以前のような賑わいを取り戻せていない。しかしながら野生動物の種類と数は世界でも有数の豊富さを誇るのだから当政府が観光産業にもっと力を入れてくれれば野性動物の宝庫としてもっと人々の興味をそそるハズ。

最近になってやっと道路整備・拡張に手をつけ始めたがそれより前にやるべき大事なことはドライバーに対する教育・指導なのだがそれが浸透していない。人々の足として重要な役目を持つマタツーという乗り物がある。14人乗りの乗り合いバスで普通の車と区別する為に車体横に黄色の線を引いているのがそれで、ナイロビで起こる車の事故の90%にこのマタツーが関わっている。どこの道であろうと対向車線走行は自分達の特権だとばかりに人を満杯にしてスピードを出して走って行く。道沿いに学校のあるところでは子供たちが飛び出すので校門前などにバンプが作られている。マタツーといえどもスピードを降ろさざるを得ないシステムだ。しかしこのバンプも全部が同じ高さに作られている訳ではなく車体の低い車など通過する度にガリガリいわせている。全体的に車の量も増え、インド洋に面したモンバサ港から荷揚げした物資を隣国ウガンダに運ぶ大型トラックなどもナイロビ市内を通過しなければならないので時間によっては大変な交通渋滞になる。バイパスの完成が待ち遠しい。

ナイロビ空港から市内まで距離にして18km、10年前は20分で行けたのが今では2時間掛かってしまう。朝夕のラッシュアワー時など3時間以上掛かる。以前はどこへ行くにもアフリカの広いサバンナを運転して行くので非常に気持ちがよかったが最近は車を運転するのが面倒になってきた。大分前からAT車に代えてはいるがあの混雑の中を通らなければならないかと思うともうそれだけでイヤになる。

停電がよくあるということは前回にも書いたけどそれなのに今月7月から電気代が25%も値上がりするという…。冗談じゃないよ、これだけ停電が多いのに値上げするなんて一体何を考えているのか…せめてジェネレーターのガソリン代を請求したいくらいだ…

ナイロビ近景その②

ケニアの4月は1年の内で大雨季のシーズンと呼ばれ一番雨量の多い季節。だがここ数年雨季と乾季の変わり目が変化していて今年の4月は雨が少なく5,6月も雨は降ったが雨量は例年に比べ少なかった。ナイロビはその昔港町モンバサからホワイトハイランドのキタレを通りウガンダのカンパラまで物資輸送途中の宿場町として栄えた。サバンナの中に造られた町だがナイロビ=清い水の湧き出る所(マサイ語)といわれた程でその上1年を通して空気が爽やか、雨が降ってもいやらしくまとわりつく湿気もなく自然、人が集まり都市としての機能を備えていった。市の西方面は高台になっており市内を出る時は晴れていたのに15分も走ると雨が降っていることがある。僕が住んでいるのは市から西北にしばらく行った奥にあり森や林に囲まれ、ヘビやカエルは勿論カメレオンもおり鳥類図鑑に載ってはいてもめったに見られない大型の銀顔サイチョウなどが庭の樹の上に止まっていたりする。7月に入ってからも夕方から雨が降ることがあり何となくハッキリしない天気が続いている。

雨が降ると停電になることが多いが大体は5分程で電気が戻る。日によって朝9時から夕方7時まで停電になることがある。夕方停電する時はワザとじゃないかと思う程7時になるとパッと消える。もしも15分過ぎても電気が戻らなかったらケニア電力会社に電話をする。

「こちらはニュームサイガ区ティギリ道路17番だが電気が止まったけど何か問題が?」

「17番…っていうと、待て、今コンピューターをみているが…MR.ENDOの家か?」

「そうだ、電気代は既に払ってある筈だが…」

「支払いの問題ではない、あなたの住んでいる区域全体の電気がストップした」

「何故なんだ何の問題があるのか?」

「今すぐその近くにエンジニアーを送るから心配するな」

「心配するなと言われてもこっちは暗くて大変なんだ何時に人を送ってくれるんだ?」

「今すぐ送るから大丈夫だ、Be Patient!」

何がビー ペーシェントだよこっちはこれから夕食だってのに…これから人を送るって言

うことは又どこかのトランスがショートしたんだな、それじゃ~当分は電気は戻ってこないだろうとジェネレーターを回すことにする。我が家のバックアップジェネレーターは小型の3.75kwでヒーターさえオフにすれば家の内外の殆どをカバーできる。

停電1時間後又電話をする。さっきは男性だったが今度は女性が出た。

「先ほど電話した17番のエンドウだがまだ電気が戻ってないけど…」

「オーケーこれからテクニッシャンを送るから大丈夫」

「エッ、さっき1時間前に電話した時にエンジニアーを送るって聞いたが…」

「停電はあなたの所だけじゃない、皆忙しいからもう少し待て」

「もう少し待てって、あと何時間暗い中にいなきゃならないんだ!ローソクもトーチも持ってないから何も出来ない!」…とアフリカ式交渉会話術を使う。

「私はこれからテクニッシャンを送ると言っているんだ、だから待て!」

「あなたの名前を教えてくれ、あと30分して誰もこなかったら又電話する」

「私の名前はローズ、ドント ウオーリー!停電はあなたの家だけじゃなくあなたが住んでいる区域全域なんだから心配するな!」

「何が心配すんなだよ、自分の家だけであろうがなかろうがそんなことじゃない、早く原因を調べて電気を戻してくれ!」

例によって会話をすればするほどズレが広がりアホらしくなってくるので受話器を置く。

そして大概は2~3時間で電気が戻る。電気が戻ればもう嬉しいので電話はしない。たとえ電話をしたとしても原因を教えてくれることはない。

以前原因を知りたくて電話した時は・・・

「こちらは17番のエンドーだけどさっきの停電の原因は何だったのか…?」

「ワイヤーの問題だったらしいがまだ報告が上がって来ないから何も言えない、電気が戻ってミスターエンドー アーユーハッピー?」

「イエス、 サンキュー フォー ユア アシスタンス!」

と何かスッキリしないまま心にもないことを言って電話を切った。

 

約1年程前、ナイロビ市内に喫煙所が設けられた。近くを通ると開いた窓からモクモクと煙が出ていることがある。ちょっと前までは誰も彼もタバコを吸っていてたが健康に悪いというので止めた人が多い。歩きながら吸っていて隣の人の手に火がくっついて喧嘩になったり、まだ火の点いている吸殻をそのままポイ捨てして火事の原因にもなるし何しろ歩く道が汚くなる。喫煙所から出てくる人はさぞや満足して出てくるのかなと思いきや以外と下を向いてスーッと行ってしまう人が多い。こういった人は止めようと思いながら中々止められない人なんだろうなと何となく憐れさを感じてしまう。以前は僕も吸っていたので吸う人の気持ちはよく判るが…。

ナイロビ近景その①

今日から7月、と言っても月日は時間と共に進んで行く。時間と共にではなく月日自体が時間そのもの。我々人間の好き嫌いに関わりなく人間が認識さえできない空間で時間は生きている。

昔の洒落た人は7月のことを文月と詠んだ。今は知っている人さえ少ないかも知れないが

睦月、如月、弥生~~神無月、霜月、師走という字を見ると「いとおかし」の時代の雅やかな香りと紫式部の名が浮かんでくる。ということで久しぶりに独り言をつぶやくことにした。

僕がナイロビに来たというかケニアに着いた(入国した)のは1976年2月。もっと正確に言うとランドローバー4駆でサハラ砂漠縦断後中央アフリカからスーダン南部を通りジュバを経て国境を越えケニア北部の町ロキチョキオに着いたのが1976年2月8日。その後ロドワー、キタレ、ナイバシャに1泊づつキャンプしながらナイロビに着いたのが2月12日。あれから35年過ぎた。28才の時に日本を出たから人生の半分以上はケニアに住んでいる。後悔はない。

ケニアが英国領から独立したのが1963年、その後ケニヤッタ大統領が睨みを利かせていたのでナイロビ市内を夜でも自由に歩くことができた。市内のメインストリートであるケニアッタアベニューから長い上り坂のバレーロードに到る約2kmに亘り、ジャカランダ並木が濃い緑の葉を繁らせていた。10月の小雨季ともなると紫の花を樹一杯に咲かせその華やかで落ち着いた中に含む清々しさにホット一息ついたりしていたものだ。ナイロビ市のメインストリートである

ケニアッタべニューとウフルハイウエイの交差点に市内でただ一つの信号があってそれも黄色の点滅信号だけだった。道路もきれいに舗装され歩く人もアフリカ人と一緒にインド人、白人も多く歩いていた。夜ともなると市内のバーの前には沢山の車が並び、象マークのタスカービールで乾杯し、その後もゆったりしたいい気分で車に乗って家に帰っていた。細かいことは気にしない住みやすい環境だった。今じゃその優雅な紫も色褪せ信号も増えた。但し信号は増えたが

それを忠実に守るドライバーは少なく、大きな交差店では4~5名のポリスが交通整理に声を枯らし警棒のようなものを振り回しルールを無視する運転手を嚇したりしている。

約20年前程前からナイロビ市内の幹線道路を広げ又郊外に環状線を作る構想があった。しかしその時には市内の交通網は混むということがなく立ち消えになっていた。ところが10年程前にその構想が再燃し、ナイロビ市中心から半径約20kmの半円形のバイパスを通すことになった。そしてその情報を得た関係者は当然のごとくバイパスの通る予定の土地を買い漁り始めた。しかし2007年12月の大統領選挙後その道筋に当る買い占められた家や土地を強制的に没収又は破壊し、値上がりを期待して建てた新築の豪邸を容赦なくぶち壊していった。勿論保障などという甘い考えは一顧だにされなかった。同時に特に朝夕の混雑する道路、市内の混雑の元となる交差点の工事も始めた。そういった殆どの工事を請け負ったのは中国。他の国も入札に参加はしたが全く歯が立たなかったという。

10年程前ある情報通から聞いた話では(勿論秘密だが)中国は今後20年間に1億人の中国人を海外に送り出すという政策を出したという噂を聞いた。本当かどうかは判らないがしかし現状を見ると成る程とうなずけるものがある。ある国際人から言わせると中国人は知恵だけの欧州人と違い実際に現場に出て汗を出して働くからイイ、と言うことらしい。汗を出せばいいというもんじゃないと思うが・・・

雨の降る季節

以前にも書いたかも知れないが丁度今11月の小雨季に入っているのでその雰囲気を…

ケニアの10、11月は小雨季となり夜又は早朝に雨が降る。時折日中に降ることもあるが大体は夜とか夜明け前に降ることが多い。例年9月半ば頃から紫のジャカランダが咲き始め、10月に満開になる。11月に入るとまだ枝の先に残っているのもあるが殆どは散ってしまう。10、11月の小雨季に対し4月が大雨季となる。ところが4月の大雨季にはジャカランダは咲かない。小雨季になるとジャカランダが咲くだけではなく羽アリも大量に地面から飛び出してくる。体長1〜1.5cm、透き通った4枚羽で夜になると明かりに向かって飛んで来る。

アフリカ大陸の砂漠地帯を除く殆どの国の人々がこの羽アリを食べる。たかがアリと言ってはいけない、普通の蟻と違って栄養がたっぷりと行渡った姿形でどっしりとしており、食料事情が貧しい地区では重要な蛋白源となる。フライパンで2~3分程炒め、塩を振って食べると脂が乗った干しエビの味がする。羽アリが出てきた地面の穴を1mほど掘り下げると丸々と太った白い10cm位の女王がいて、これも又フライパンで焦げない程度に数分間コロコロ転がし、程よいところで熱々のをホウバルとジューシーな中に海老に似た味がして思わず冷えたビールがないかと目をウロウロさせてしまう。

羽アリ以外にも雨が近づくとナイロビフライという怖い奴も飛び出してくる。体長は6〜7mmだが赤い色に黒の線が入って尻尾がサソリのように上向きになり、目に見えない位の超薄い羽で飛んでくる。飛んで来るのは見えないが一度着地すると中々飛び上がらない。

白い壁などに張り付いているのを見るといかにも毒々しい。指で押しつぶそうなんてしたら大変なことになる。例えばそいつに刺されると痒みを覚え、ついつい掻いてしまった所の皮膚が破れ、そこから液が流れ出て、その液に沿って皮膚が被れ、痛いのと痒いのが3ヶ月も続く。治っても被れた後が筋状に残ってしまう。だからもしそいつをみつけたら絶対に触らずに殺虫スプレーを使うか火でやっつける。ライターでは自分の指を焼けどしてしまうのでマッチ棒の方が良い。

所が今年は4月の大雨季の時もそうだったが、この11月も羽アリもナイロビフライも数が少ない。心なしかジャカランダの紫も色が薄かったように思う。理由は判らない。来年は多く出てくるかも知れない。

小雨季でも夜にバシャバシャと降ることもあるが大体は小雨程度が多い。天気の良い昼休みなどナイロビ市内にあるウフルパーク(自由公園)などでは緑の芝生で語り合う若い人達がほほ笑ましい。

我が家の台所では庭に面した窓から棚に置いてある砂糖壷まで小さいアリが行列を作ったり、壁に沿って作ってある棚の陰にピンクの守宮の家族が住みついていて時折キュッキュッキュッと鳴き交わしている。

万が一

我々はよく万が一の為に、ということを想定し、その可能性は低いがもしも起こったら、という

場合の為に必要な予防措置を取る。大丈夫そんなことは有り得ないだろう、とは思いながらもしも何かの偶然でトラブルがあったら…と…。その万が一というのにも色々あるが失敗・間違い・勘違い・事故・病気・などなど…日本では万に一つというがアフリカでは百分の1イヤ10分の1の確率で色々なことが起きる。そうなったらもう50/50で起こると考えた方がよい。我々ケニアに永く住んでいると万が一とは言わず日常茶飯事と言っている。例えば人と人との間でもよく勘違いが起きる。口頭でお互い納得し合ったと思っても、こちらが勝手にそう思っただけで相手はその時にはイエス!イエス!と言ったにしろ先ずは納得していないし理解もしていない。後であー言ったこー言ったイヤ聞いていない…などのトラブルが起きるので大事なことは必ず紙に書きお互いサインをし書面に残しておかなければならない。

車に乗っていて交差点に差しかかり、赤信号に変わったので止まると後ろから追突されることもよくある。追突した方は絶対に車から降りてこないのでこちらから降りていって「スピードの出し過ぎじゃないのか又はあんたの車はブレーキが利かないのか…」というと「信号は青だったのに何でお前は止まったんだ…」とくる。これがもし裁判になると「この日本人は青信号で止まった」となる。裁判で証人席に立ち、聖書に手を置いて宣誓はするが「私は自分の不利益になるようなことは一切言いません」ということを誓うということだ。

万が一に当てはまる言葉は英語では“in case”とか“in nine cases out of ten”(十中八・九)と言ったりするがスワヒリ語にはそのような言葉はない。何故ないか…万が一ではなく日常茶飯事だし、将来何が起きるか判らないから何もしない…ということだ。但しIKIWA(イキワ)という言葉があって英語での“if”と同じ意味ならある。イキワヨイヨイ帰りにイフ…なんてのは冗談だが日本語の“もしも”と同じ意味になる。何が起きるか判らないのに心配してもしょうがないという考え方だ。僕の周りにもしっかりと教育を受けた知識人がいるし僕のような平凡な人間など及びもつかない明晰な持論を展開する人もいる。しかし大概のアフリカ人は“日本人は恐がりで心配ばかりしている”と思っているようだ。

いつだったかマサイの友達が遊びにきて帰る時…

「オイ、コイカイよ雨が降りそうだけど傘持って行くか…?」

「心配するな雨の匂いはしないから大丈夫だ…」

「もし降ったら濡れて風邪引くぞ…」

「ノープロブレム、雨が降ったら木の下に行くし止まない雨はない…」

「ジャ~今しばらく待ってみるか…?」

「エンド、心配するな雨は神様の恵みだし、もし降ったらオレの牛も喜ぶよ…」

いつものことながらどうも話しの焦点がズレがちになる…

確かにナイロビの雨は通り雨が多く、歩いていて突然降り始めたら近くのホテルとかビルの入り口に立って待っていると15分位で止んでしまうことが多い。そんな時突然隣に立っている人から「こんにちは」と声をかけられることもある。話していくと日本に技術研修で行っていたことがある人だったりし、以後仲良くなったりすることもある。これなんかは日常茶飯事とは言えないので偶然ということになる…。